"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

北母子里 (深名線) 1973

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雨竜郡幌加内町字母子里の地名は、先住民族アイヌ言葉の mosir に由来するのだろうか。とすれば、彼らにとって特別の土地だったことになる。けれども1869年に蝦夷地が日本の植民地としての北海道と改められれば、ここも彼らに何の断りも無くその領土(国有地)に収奪されたのである。
この雨龍川上流部の奥地に位置した原生林の約3万haは、1901年にその運営資金の自己調達に内務省(北海道庁)より札幌農学校の財産林に移管、以降に同学第一基本林として運営され、1918年には農学校から農科大学を改めた北海道帝国大学の雨龍演習林とされて、現在の母子里には看守所と、学生の実習施設としての製材工場に教官及び学生の寄宿所が設けられた。この製材工場は官行伐採の山元製材により学生の実習に供し、あわせて道庁用材の自給を図るものであった。(ここは下記の開拓農家入植後には演習に支障のない限り、その自家用材の製材に応じて集落の建設にも寄与し、1976年まで稼働した)

ここへの開拓農家の入植は、帝大が公募した演習林内への1928年から1933年にかけての24戸が最初とされている。1922年の『鉄道敷設法』に予定線とされた名寄-羽幌間鉄道の内、名寄-雨龍(朱鞠内)間の計画が雨龍川電源開発計画と共に1928年頃より動き出しており、奥地への入植もその開通を見越してのことであったろう。
多くが同じ道内の美深村からの応募と云うのは、おそらくそこへの初期入植者の子弟世代が土地を求めたものと思われ、当時に、赤平の茂尻や士別の茂志利に対して「茂知」が当てられていた開拓地名も、1928年8月5日の若い入植者夫婦への第一子誕生を機会に、現在までの「母子里」に改められている(*1)。また、早くも1931年には尋常小学校の開校されたことでもそれは知れる。これに続いたとされる中頓別村からの13戸に常盤村からの5戸についても若い世代だったろう。

建設線名の名雨線を改めた深名線が1941年10月10日に全通し、ここに北母子里停車場の開かれれば入植者も増え、戦後の1950年に87戸618人の人口を擁するまで成長する。これには復員軍人や引揚げ者の入植も含まれたであろうが、この頃に開拓農家は駅周辺の市街地ばかりでなく、周囲に広く散在して小さな丘陵を隔てたモシリウェンナイ川流域にも集落が作られていた。1940年代には、戦時下の隣保組織だった隣組制度にて駅周辺を「市街班」した他は「一組」から「五組」にまで分けられ、それぞれが15軒前後の規模と伝えられる。
農家の生産物は寒冷気候に耐え得る馬鈴薯が中心で、隣組に1軒は澱粉加工場が在ったと云う。

母子里の人口は上記の618人をピークに以降減少に転じ、1960年代の高度成長期を通じて流失が続いた。それでも、ここに初めて降り立った1970年代初頭、駅前には石造りの農業倉庫に澱粉工場が並び、その先には数戸の農家に商店も存在して、駅も短い有効長にコンパクトな造りながら、島式乗降場を挟む上下本線に貨物側線と積卸場を備え、同時期の私設鉄道とは比べ物にならぬ鉄道省建設の停車場であった。
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(*1) 命名者は北大演習林関係者と伝わる。1930年に幌加内村議会の承認を受けて正式の字名となった。

その頃でもここを走る列車は既に単行運転だったけれど「汽車時間」ともなれば駅には多くの旅客が集まっていた。冬至を過ぎたばかりの早い暮色にやって来たのは947Dの名寄行き。
2013年現在の母子里の人口は36人と聞く。著しい過疎である。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4  following data is unknown

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コメント

北母子里

深名線、地味すぎる線区ですがどうにも心惹かれます。
人跡未踏の山中を行くキングオブローカル線という風情でしょうか。
沿線には朽ちかけた開拓農家が目立ちましたが、今はそれすらも自然に還ってしまいましたね。
かつてこの沿線にまだ活気があった時代は、お写真で拝見するのみです。

ホームの乗客の多さに驚きます。
9600が牽く混合列車のオハニに積み込まれる牛乳缶の写真も見た事がありますが、
そんな時代の北母子里に立ってみたいです。垂涎ですね。

  • 2014/03/20(木) 00:43:56 |
  • URL |
  • 風太郎 #ORZvdv76
  • [ 編集 ]

こんにちは

学生時代に、蕗の台駅からからぐるっと朱鞠内湖の周りを 春の花たち、とくにカタクリを探しにうろついたことがあります 80年代です
北母子里の集落では小学校の運動会の真っ最中でした 
こういう地域の運動会は町内運動会も兼ねるものですが、ここでももちろんそうでしたねえ
そのころすでに廃線か?と思うような鉄道沿線でしたが廃線後は余計に町や村がさびれて 鉄道のなくなったマチは何をどう補っても、急に、すごい速さで衰えていくんだなと思いました




  • 2014/03/20(木) 13:46:09 |
  • URL |
  • Jam #-
  • [ 編集 ]

Re: 北母子里

こんばんは。

朱鞠内から名雨隧道を越えての天塩弥生までの区間は、ほんとうにそんな線路でしたね。
それでも、最盛期にはこの母子里の600人に、白樺に60人程、蕗ノ台に至っては150人程が
暮らしていたと言うのですから、鉄道とは大したものです。それが在ってこその定住だった訳ですから。
この70年代初頭も、人口は相当に減らしていたでしょうが、そんな過疎地の駅とは感じませんでした。

  • 2014/03/20(木) 22:52:32 |
  • URL |
  • Wonder+Graphics #-
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

こんばんは。

幌加内町立母子里集中学校の児童生徒の最大数は1950年代後半で、150名くらいだったそうです。
それは賑やかな集落だったのでしょうね。
人口の流失は後継者難からの離農もあるのでしょうが、道路交通の利便が良くなり
農家もわざわざ僻地の農地傍らに住まずとも自動車で通えることもありそうです。
ここも、道々に名母トンネルの開通して名寄郊外から至近の位置となりました。

  • 2014/03/20(木) 23:12:11 |
  • URL |
  • Wonder+Graphics #-
  • [ 編集 ]

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