"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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留萠 (羽幌線) 1970

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石炭から石油への所謂エネルギー革命は1950年代に始まる。国際石油資本による中東やアフリカ、南米での巨大油田の開発はこの時代のことである。大型タンカーの就役とも相俟って供給価格が大幅に引き下げられ、それは資本主義の原則に従い世界中に供給されることとなった。日本も例外で無く、政府は1952年に重油の販売統制を解除してこれを受け入れている。それは、この機に高値に安定していた炭価の引き下げを誘導するためでもあった。ところが、1957年3月に第二次中東戦争が終結すると、主には経済復興を要したエジプトの増産により石油は1バレルあたり1ドルとも云われた安値となり、国内では転換の始まっていた工業用動力需要が一気に石油へと向かってしまったのだった。政府も将来の動力源転換を想定し、1955年に『石炭鉱業合理化臨時措置法』(1955年8月10日法律第156号)を成立させていたものの、その瞬く間の産業界の転換の速度には対応は後手に回ったと云うべきであった。国内炭の石油への対抗の不能なことは誰の眼にも明らかとなり、同法に定めた炭礦のスクラップアンドビルド政策を実行しつつも、1960年代を通じて国内生産からの漸次的撤退を図らずを得なかったのである。

苫前郡羽幌町に所在した羽幌炭礦の産出は灰分の少ない炭質で、煤の出ない性状から暖房炭に重宝され、その間も安定した出炭を続けて、道内でおよそ30パーセントのシェアを維持する優良炭礦だったのだが、1969年に保有した羽幌本坑、上羽幌坑、築別坑ともに切り羽が断層帯に達して減産を余儀なくされ、1970年には債務超過に陥ってしまう。これに対して会社はその需要を背景に、1967年に成立の『石炭鉱業再建整備臨時措置法』(1967年7月5日法律第49号)での再建を可能と見て、同年9月1日に財産保全ため会社更生手続開始の手続きを申立てるのだが、これが従業員の動揺を招き、炭礦労組は10月25日に政府が1969年に策定していた「第四次石炭政策」に基づく「特別閉山」を求めるに至った。それによれば、会社清算に際しての労働者債務は国により完全保証されたからである。この従業員の離反を前に会社はやむなく11月2日を以て閉山としたのだった。会社更生法の適用申請までに債権者からの訴訟の動きは見られず、会社側の先走りが自らの首を絞めた結果の閉山であった。

これにより、深川機関区留萠支区に在って築別から留萠までの運炭列車に重連で専用されていたD61形蒸機は、その全機6両が仕業を失うこととなった。羽幌線の低い橋梁負担力からD51を軽軸重としたこの機関車は同線専用機であり、D51も余剰とされる時代には転用されるでもなく終焉を迎えた。もっとも出炭の減った時点にて本来の4両使用は2両使用となり、612/615/616には早々と第一種休車の措置が取られていた。
写真は、留萠の羽幌下り本線を出発する滝川からの鬼鹿行き(回送で羽幌まで)海水浴臨時9841列車。深川からの牽引にこの日はD611の登板であった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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