"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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塘路 (釧網本線) 1976

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塘路の地名が初めて記録に著されるのは、1797年の松前藩士高橋壮四郎らによる『蝦夷巡覧筆記』であり、そこにはトウロと記されている。高橋壮四郎は松前藩の『寛政十年(1798年)家中及扶持人列席調』によれば御近習列とあり、藩主より直接に蝦夷地の奥地調査を命ぜられたものであろう。文化年間(1804-1818年)の『東蝦夷地各場所様子大概書』にもトウワ(※ママ)トーとして塘路湖の記載がある。そこは蝦夷地の先住民アイヌ民族の古くからの集落(コタン)の地であった。

蝦夷地が明治政権の植民地たる北海道に改められると、1869年に川上郡トーロ村が佐賀藩の支配地として置かれ、それには開拓使根室出張所の管轄となった後の1875年に「塘路」との漢字表記が当てられた。
1880年には跡佐登硫黄鉱山からの硫黄搬出にかかわる道路、と云っても通路と呼ぶべき踏分道程度だったらしいが、それは塘路村を貫通して釧路まで開通し、ここには1885年に川上郡4ヶ村の戸長役場が置かれた。それらの地理的中心に位置したものであろう。
この地への開拓の集団移民は、1892年の高岡縫殿を代表とする香川県からの11戸48人による「貫誠社」を以て嚆矢としている。彼の地で製糖のサトウキビ栽培の農民であった彼らは、ここでもそれを目指しての移住と云うが叶うはずもなく、原生林に熊笹の大地に冷涼な気候に僅か半年にて開墾を諦めざるを得なかった。1930年にイソポウンナイに入植の山梨団体も同様の命運を辿り、与えるべき情報も営農技術も無いままに植民を急いだ政府による犠牲者と云うべきであろう。移民の主体が授産目的の士族から民間人へと移行した北海道庁成立初期には多々見られた事例であった。貫誠社を率いていた高岡は、その責任感からか団体の解散後も塘路に留まり、1895年に英国人宣教師が開設したアイヌ学校にて教鞭を取ったとの記録がある。農民とは云え学識の在る人物だったのであろう、ここはその彼にも想像を遥かに越える北辺の地であった。
ここへの入植の本格化するのは、麦や蕎麦すら育たなかったこの地で馬鈴薯や燕麦の栽培に目処の付き始めた1910年代以降のことである。

塘路への鉄道の到達は、1927年9月15日に至ってようやくに標茶までを開通した釧網線に、開拓地への利便として塘路停車場が開かれたことによる。ここに限ったことでは無いが、鉄道の開通は開拓地の換金作物の安定的な大量出荷を可能として農家の収入確保に寄与したばかりでなく、生活物資の供給と物価の低廉により生活の安定をもたらしたのだった。
さらには、有り余る天然資源に商品価値を与えもした。ここでは塘路湖のワカサギに開通した鉄道で内地から加工業者が買い付けにやって来たのである。その内水面漁業は鉄道開通を契機としており、塘路湖漁業組合は1928年に創設されている。当初には業者に安く買い叩かれるばかりだったが、1932年には漁業者自らが佃煮への加工を始めて現在に至って居る。

塘路湖畔の列車は634列車の網走行き。「塘路の崖」(→塘路 (釧網本線) 1982) のあまりの斜度に上り切れず、その途中で何とか身体を支え乍ら撮っている。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/f2.5 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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