"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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倶知安 (函館本線) 1976

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倶知安 (函館本線) 1984 から続く

スキー北海道』は、1938年12月28日に鐵道省札幌鐵道局が発行した道内スキー適地の案内書である。勿論内地においても販売され、道内への誘客を促進するものであった。
詳細は調べ得なかったが、奥手稲へ山の家を開業した1930年に発行の『雪・スキー・北海道』、おそらくそれの改訂版と思われる1934年の『スキー北海道』のさらなる追補・改訂版であろう。戦後の1947年には、日本交通公社札幌支社に発行元を替えての『新スキー北海道』もある。
前述した1924年の『スキーとスケート』で、ニセイコアン地域に小樽・札幌近郊、旭川近郊程度だった案内は、同書で「将来の」との但書きを付けて2行程度の触れられるのみだった網走線、宗谷線沿線に加えて、函館・大沼地域や定山渓地域、十勝岳、大雪山系、帯広近郊など全道に及んでおり、この間のスキーの普及が伺える。
これら案内書に明らかなように、戦前期におけるスキーとは、山岳地帯の尾根筋を縦走する山スキーであり、縦走路途上の自然のスロープで滑降を楽しむスタイルであった。都市近郊やスキー適地の下車駅近くに滑降場も開かれてはいたが、それは『スキー北海道』には「練習場」と紹介され、ここからも山スキーが基本と知れる。その拠点ともされた山中の温泉地などへ冬期に道路は通じず、そこへも鉄道駅からスキーを履いて到達するのである。1930年代に、鉄道省が大々的に着地キャンペーンを展開した、先進地ニセイコアン地域にしても事情は変わらず、狩太(現ニセコ)から昆布温泉までに馬橇の定期運行が行われていた程度であった。

そのような山岳地の斜面や山麓がスキー場として整備され、スキーのスタイルがゲレンデでの滑降中心に移行するのは戦後ことである。北海道での国鉄の直接関与には、1961年からのニセコひらふスキー場(同年にニセコ比羅夫スキー場から改称)への接続輸送がある。
このニセイコアン・ヌプリの東斜面は、1920年代の前半にはその山頂から途中山田温泉を経て比羅夫駅に至る幹線滑降コースが開かれて、その広大なスロープでは長距離の滑走を楽しめた。ここのスキー場としての整備は、1961年12月17日より運輸営業を開始した特殊索道(スキーリフト)の設置に始まる。戦後に進駐軍がその専用施設として札幌藻岩山に持込んだこの設備は、この頃までに群馬県草津や新潟県野沢を始め道内でも荒井山や天狗山に設置が進んで、スキー滑降場には必須とされつつあり、このニセコ比羅夫スキー場では、第40回全日本スキー選手権大会の1962年3月の開催決定に際して、急遽計画の具体化したのである。設置された2基の索道の延長570メートルと500メートルは当時に国内最長であった。
これを運営したニセコ高原観光には、他にチセヌプリと昆布温泉からモイワ山斜面にも設置計画があり、国鉄山の家へのコースにあたるこれが、索道の設置されても山麓までの交通のなかった比羅夫側に国鉄を関与させる誘因であったように思える。
札幌鉄道管理局は、索道の営業開始に合わせて札幌からの臨時準急に、比羅夫からの自動車運行を開始する。国鉄によるスキー客輸送に特化したバス運行は北海道に於ける唯一の事例である。
(この項続く)

写真は、岩見沢から倶知安に終着した134列車。小樽行き1553Dの着発を待っての入換となる。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 Bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.


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