"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

ニセコ (函館本線) 1983

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倶知安 (函館本線) 1977 から続く

北海道は積雪地であったから、スキーの普及の各段階全てに先行して、後にも鉄道省が積極的に関与した形跡は見られない。鉄道省には当初より送客の着地側と認識されていたものだろう。それは初期には、札幌・小樽近郊に始まり、富良野からの十勝岳、そしてニセイコアン地域であり、これらは札幌や小樽のスキー愛好者らによって開拓されたフィールドであった。

北海道においてもスキーの普及初期には札幌や小樽の学生達が行動した。東北帝国大学札幌農科大学(後の北海道大学)文武会スキー部は1912年の9月21日に、小樽高等商業学校(後の小樽商科大学)交友会スキー部も同年10月に創部されている。在京の各校に数年を先行し、北海道庁立の各学校(後の道立高校など)や私設校もこれに続いたのは、やはり東京と異なり滑降地の身近な積雪地ゆえだろう。
スキー先駆者であった軍人や教員、官公庁での愛好家に学生、一般市民を加えた「スキー倶楽部」の発足も同年のことで、小樽が10月28日、札幌で12月23日と記録されている。両スキー倶楽部は、幾度も開催した講習会等を通じてその普及に努め、札幌の三角山に開かれていた馬場農場や、小樽市内なら花園公園(現小樽公園)の斜面が会場や練習に使われたようである。後にくり山(現在の月寒小学校裏手斜面)や荒井山のスロープが加わり、小樽では緑町一帯の斜面が滑降場に整備されていった。スキーの実践にも藻岩山、手稲山に天狗山、毛無山と事欠くことなかった。
学生達の動きは、農科大学スキー部による翌1913年12月を初回に恒例化する真狩山(後方羊蹄山)へのスキー登山やニセイコアン連峰踏破、1919年からニセイコアンベツ青山温泉で始まる農科大改め札幌帝国大学の、1922年からの同宮川温泉での小樽高等商業の、それぞれの定例合宿などにて倶知安を中心とした地域に及んだ。

1910年代のニセイコアンベツやマッカリベツ原野は、中心市街地の倶知安ですら電燈の灯らぬ開拓地であり、それにともない発見された幾つかの温泉に、1904年に小樽と繋がった鉄道にて訪れる人の現れていた程度であった。学生達がこの地を選んだのは、日本にスキー技術を伝導したオーストリア=ハンガリー帝国軍人テオドール・エードラー・フォン・レルヒによる1912年4月の真狩山へのデモンストレイション登山に倣ってのことである。彼が日本におけるスキー講習の仕上げを蝦夷富士とも呼ばれたこの山としたのは、前年に富士山登頂に失敗していたゆえと伝えられるが、ならばその存在がニセコ地域の命運を定めたとしても良いかも知れない。
ここでも、レルヒが登山練習を兼ねて行った倶知安市街地隣接の大黒山(現旭が丘スキー場の一部)での滑降を切っ掛けに、見よう見まねの手製スキーに始まり、スキー製造業者も現れるなど住民に普及しつつ在ったのだが、札幌に小樽の学生団体が牽引してのスキー愛好者らは周辺の山々に滑降コースを開拓し、この地域のスキー適地、また保養地として発展の基礎を形成したのであった。
1920年代を通じてのスキー普及とともに都市部からの入込み客は増加したものと思われ、1929年には札幌からの初のスキー臨時列車が倶知安へ運行されている。これの往路は、内地のそれに従い札幌を夜間に出発する設定だったが、その運行距離から倶知安に旅客乗車のまま朝まで滞泊した。
冒頭に記した鉄道省による「スキーは北海道へ」との勧誘は、この頃のことである。(この項 倶知安 (函館本線) 1984 に続く)

第5尻別川から第4尻別川橋梁へと進む列車は荷43列車。
真狩山を望むこの位置へは、細道が雪に閉ざされてしまう前の、その降り始めに立っていた。山の全容を見たのは数える程も無い。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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