"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

倶知安 (函館本線) 1979

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1920年代末の冬の季節、帝都東京の省線各駅に「スキーは北海道へ」とのポスターが掲出されていた。鉄道省は、この1920年代を通じてスキーへの誘客を冬期増収施策とし、それは上信越や奥羽方面、関西からならば北陸・山陰方面を加えた各地域への送客を主体としていたが、ここに遠く北海道が登場したのである。
当時、スキーの余暇旅行に北海道へ向かい得た層は確かに限られたけれど、銀嶺の世界に大衆を誘い出すに北海道の持つ北国のイメイジは十分に戦略的であった。しかも、鉄道が戦前の黄金時代を迎えつつ在ったこの時期の鉄道省のポスターは実にモダンで洒落ていた。
とは云え、倶知安を中心とした今に云うニセコ地域を筆頭に、北海道にスキー客受け入れ準備の整いつつあったのも確かであった。

国内におけるスキーの事始めはともあれ、それの普及と大衆化に鉄道省は大きな役目を果たした。この舶来のスポーツの冬期増収策としての活用には、その切っ掛けに些か面白いエピソードが伝わる。
1917年か18年の冬のことである。鉄道省の運輸局旅客課に勤務する職員のひとりが、公務か私用であったかは明らかでないが信越方面への旅行の際、新潟県高田ではじめてスキーに接する。軍隊が教練し、郵便配達人が雪上の移動手段として用い、子供らが遊びに興じる姿を物珍しく眺めるが、一番の驚愕はそれを目的とした東京からの学生達の存在だったと云う。
とすれば、この職員は承知していなかったことになるが、1912年に鐵道院の外郭団体として設立のジャパントゥリストビューローは、早い時期から外国人観光客誘致や在日外国人の冬期旅行にスキー・スケートを提案し、併せてこれの国内への普及運動にも熱心であり(*1)、1910年代後半には在京の学生を中心に信越あるいは奥羽方面に向かう一群が少数ながら現れていたのである。東京帝国大学、女子高等師範学校、早稲田大学、慶応大学などのスキー部は皆この時期に創部されている。
この、まだか細い冬期独特の旅客流動を新たな増収対象と捉えた旅客課の提案は上層部の承諾を得て、スキーへの誘客は鉄道省の方針となるに至ったのである。鉄道省は戦前の鉄道黄金時代に踏み出したこの時期、従来からの観梅、観楓、観瀑、観月など花鳥風月や神社仏閣を対象とした誘客に加えての資源を求めており、それにも合致したとも云える。ただし、鑑賞物では無く旅客自らの参加を求められるスキーにはそれの普及と人口拡大が不可欠であり、必然的にプロモウションはそれまでのポスター掲示などの誘客宣伝に割引運賃設定などの営業施策だけに留まらず、スキー大衆化のありとあらゆる施策を鉄道省自らが展開したとして過言ではない。それが、この時代にほぼ陸上交通を独占していた鉄道の運輸収入に直結したゆえである。
鉄道省とスキーとの関連に送客着地としての北海道での施策の概略を、以下数回に分けて記述する。(この項 倶知安 (函館本線) 1977 に続く)
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(*1) 一例を挙げれば、1918年1月に在京大学の学生約500名を集めての先覚者による講演と映画上映の「スキー講演会」、および一般大衆を対象に、スキー用具の展示に実地講習、ポスター・写真展示の「スキー博覧会」を主催している。これは帝都におけるスキーコンヴェンションの先駆けであった。博覧会は4日間の会期に2800名の入場と記録される。また、月刊で発行の協会広報誌『Tourist』には、毎号にスキー関連記事を掲載していた。

真狩山(シリベシ山)を背景に峠へと向かうのは、荷41列車。
冬の北4線踏切には、道路の閉ざされてしまうゆえ線路歩きしか到達手段はなかった。随分としばらく、ここに立っては居ないけれど、今も同じだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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