"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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上野幌 (千歳線) 1989

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上野幌 (千歳線) 2008 の続きである。

1919年から札幌宮の森の三角山斜面に農場を経営していた馬場和一郎が、1927年に厚別旭町一帯に開いた種畜と牛乳加工の60haに及ぶ大農場が馬場農場である。この農場を1942年に内務省(北海道庁)が取得した経緯は調べていない。二代目の馬場忠の時代に恵庭へ移転とする資料(*1)があるから、その際のことであろうか。
米国とも戦端が開かれ食料の増産が叫ばれた当時、鉄道省は内務省からここの貸渡しを受け札幌鉄道局の「練成農場」に利用した。戦時下に陸軍省情報局が国民への啓発に発行した週刊紙『週報』の読者欄「通風塔」に拾えば、「戦時練成農場」とは家庭農園や隣組農園、或は団体での共同耕作の推進に行政側が貸与した耕作地ないし農場を指すものらしい(*2)。推定ではあるけれど、戦後の食糧難時期にも鉄道職員による耕作の続けられて、1947年の内務省の消滅以降には1949年に発足の日本国有鉄道に帰属したと思われる。

新産業都市建設促進法(1962年法律第117号)に基づいて道央地域が新産業都市に指定を受けたのは、1964年1月のことであったが、それは1951年からの北海道総合開発計画とも関連してその構想段階より既定だったと思われ、逆算すれば前述の国鉄札幌地区改良計画の実行されていた1960年頃までには、将来の大谷地地区への貨物施設設置案は国鉄部内にて検討され、単複は未定ながらそこに千歳線の別線を通す方針の立てられていたであろう。札幌市の協力により代替地に加えて広大な土地の確保出来、限界に近づきつつ在った苗穂の貨車操配機能を移転するには理想的位置であり、また対本州方面列車の順路構成には欠かせぬ配線だったからである。加えて函館本線の厚別川橋梁付近は千歳線上野幌と接近した位置となり、この間をR=800M程の逆エス字型線形で繋ぐのは自然な経路選定でもあった。これが初期の千歳新線構想である。苗穂からの新線延長は10.2キロを予定していた。
1970年代前半まで、ひばりが丘団地中央部の南北方向に残されていた未利用地が、旧馬場農場地内に国鉄の留保した線路用地と推定出来るのだが、確証を得る資料には出会っていない。永くグラウンド等に供された用地は駅の設置も可能な規模であった。現在には厚別西通のひばりが丘団地内区間その他に転用されている。

既設上野幌の維持を方針としたのも、そこが1961年から造成の予定された下野幌第一団地(青葉町団地)地区の南端に位置し、将来に旅客利用の増加の見込めたゆえである。それの放棄は、札幌市が1966年に取得した陸上自衛隊の弾薬庫(北海道地区補給処厚別弾薬支処)の移転跡地への設置を求められた新駅(現在の新札幌)を収益確保の代替と考えてのことであり、線形構成上東回りの経路を採らざるを得なくなった経路上に列車退避設備を要して既設線の起点13K700M近隣に置いた停車場を書類上に上野幌の移転としたのだった。後の新札幌に待避線を置かなかったのは、高架構造のそこでの用地の限界と建設費負担を嫌ったものであろう。この決定は、当時の国鉄の財務状況や組合との折衝に時間を要して1960年代末までずれ込んだと思われる。

移設の上野幌は当時には信号場としても良さそうに立地ではあったが、既設から直線距離で南東へ1キロ程の位置は、酪農農家が散在するのみだった上野幌地域からの利用に関わる距離のさほどに変わらず、その利便確保から旅客駅とされたのだろう。但し団地開発区域からの利用は丘陵地に阻まれて困難であった。
それゆえ運転扱いを札幌貨物ターミナルに置いた制御所からのRC制御としての無人駅は、1987年に札幌日本大学学園が近隣に移転し、近年に周辺地域まで宅地開発が迫るに及んでの利用客増加を背景に、1998年3月に小さな本屋を設け時間帯を限って外部委託に依る営業要員が配置された。開設から四半世紀目のことであった。加えて、2004年12月のここで交差する厚別東通り(札幌市道里塚上野幌連絡線)の開通にて里塚・平岡方面からの利便性が飛躍的に向上したけれど、バス便の設定は無いようだ。
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(*1) さっぽろ文庫 札幌地名考 : 札幌市教育委員会編 (北海道新聞社 1977年)
(*2) 週報 通巻405号 (陸軍省情報局 1944年7月26日)

写真は上野幌場内を抜けて往く35D<おおぞら5号>。後追いである。
上野幌を往来する列車を俯瞰出来たこの位置は、丘陵を越えて青葉町団地に抜ける細道の横断していた小さな斜面で、その下の辺りは地元の子供らの格好のソリ遊び場だったのだけれど、厚別東通りの建設で切り崩されて現存しない。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.
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