"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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北舟岡 (室蘭本線) 1997

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現在の伊達市、先住民族によりモンペツとされた地域の開墾が、奥州伊達藩の支藩であった亘理藩の藩を挙げての移住によることは良く知られた通りである。
幕末に伊達藩支配地であった新冠や沙流を希望しながら、賊軍ゆえに与えられた噴煙の火山の麓は結果的に道内でも温暖な地域であった。1869年に藩主伊達邦成自ら事前の検分に訪れた10月下旬(当時には旧暦)は降雪の季節であったが、膝も埋もれる積雪から突き出した枯れ草に肥沃な土地と確信したと云う。
集団移住は、1870年3月から1981年4月までの9次に分けて行われ、総勢2700人余りと伝えられる。これには家臣は勿論のことその郎党一族が含まれ、単身移住を認めなかったことが、このプロジェクトを成功に導いたとされている。
1871年には開拓使からの支配罷免の命により、そこでの亘理藩再興はならなかったけれど、邦成は住民取締役に命ぜられ引き続き開墾の指導にあたった。
現在の伊達市旧市街地が北海道の都市に通例の街区制を採っていないのは、藩再興に移住当初の支配所への築城を予定し、市街地も築城法に従ったためである。即ち城下町の街路が形成され、支配所の置かれた現在の梅本町付近を中心に支配所前を本町、裏を北小路、紋鼇川沿いを南小路・西小路としていた。如何にも武家らしい市街地形成と云える。
1871年の800余人の規模となった第三次移住により開墾地は周辺に大きく広がるが、そこでも基線を引いての区画割りとはされなかった。1880年・81年の移住最後の入植地である稀府や関内地区がそれに近い街路網となったのは、その頃に至ってようやく開拓使の指導が行き渡ったためであろう。
これら開墾地にも、これも武家らしい優雅な町名が付された。曰く、旭ヶ岡、網代町、青柳町、菖蒲小路、泉小路、乾小路、岩ヶ根町、梅本町、清住町、桔梗小路、桜小路、末永町、巽小路、竹原町、西小路、浜町、萩原町、松ヶ枝町、南小路、弄月町などである。1871年に移住の歌人佐藤脩亮による発案とされる。
但し、弄月町の海側、舟岡町の事情は異なる。ここは、亘理伊達藩と同じ境遇に在った仙台藩士柴田家一族が亘理藩の集団移住に同道して入植した地であり、その旧領地船岡にちなんで命名されたものである。このシャミチセ川沿いの旧市街地も城下町風の街路構成となっている。

ここの海岸線を通過する室蘭本線上へ、1963年9月30日に設けられた信号場への北舟岡の付名は、東北本線船岡との区別を要してのことである。
白波の立つ噴火湾の強風下を通過して往くのは、5列車<北斗星5号>。画角の既出はご容赦願いたい。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec.@f2.8+1/2 Fuji SC42 filter PKR Edit by PhotoshopCC on Mac.
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コメント

海沿いの北斗星

この海沿い区間、惹かれはするものの、線路際のゴチャゴチャは大丈夫かという危惧があって食わず嫌いが続いています。

いいですねえ、この冬景色。この列車。
命運も尽きてきた北斗星をこういうシチュエーションで撮りたいんですがねえ。

遠征でしょうか。大漁をお祈りしております。

  • 2014/03/04(火) 21:31:55 |
  • URL |
  • 風太郎 #ORZvdv76
  • [ 編集 ]

残念ながら

噴火湾岸の室蘭本線ですが、明確に海岸線をトレースする区間と云うのは、このあたりしか在りません。
北舟岡の伊達方には住宅の建て込み始めているものの、稀布方は大丈夫です。
けれど、残念ながらこの位置には立てなくなっています。
来年の今頃には、藪払いに精出す人が居るかも。

鉄道屋とは勝手なもので、冬の海は荒れていないと満足しないんですよね。

  • 2014/03/05(水) 12:05:04 |
  • URL |
  • Wonder+Graphics #-
  • [ 編集 ]

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