"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

比羅夫 (函館本線) 1991

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自らもその渦中に在った蒸機ブーム末期に至る狂乱に嫌気の差してしまい、以来40年近くを蒸機の展示運転は勿論のこと、撮影者の集合しそうな機会には一切関わらぬことを信条として来ているのだが、それを一度だけ破ったことがある。
前夜に長万部へ宿を取り、本州からの下り特急寝台列車群の撮影を予定していたその日、生憎なことに前日夕刻の首都圏での架線障害に仙台付近の信号機故障が重なって、<北斗星>系統は1列車と3列車が函館で、5列車が本州内(後に聞けば盛岡)での打切りが決まり、加えて日本海縦貫からの8001列車も運転日に当たらず、撮る対象の無くなってしまったのだった。この状況下に仕方なく向かったのが、意識的に避けていた函館山線でのC62の展示運転であった。その倶知安峠をはじめ沿線の騒乱を聞き及んでいたから、撮影は下りのみとし、なるべくに人出の無さそうな位置に比羅夫を選んだのである。そして、念入りにも比羅夫トンネル付近の集中を避けて桟橋起点185.5キロ付近のR=300の連続する区間に立った。それでも曲線ひとつひとつの外側の茂みには後方からの画角にはいらぬように撮影者が潜んでいたのだった。

1979年に山口線にて産業遺産としての動態保存を本意に始められたはずの蒸機列車の展示運転は、1987年4月の国鉄の分割・民営化を契機に、同線での運用客車のアコモデーション改装や豊肥本線における<あそBoy>の運行を契機に観光列車に変質する。それを民間資本に預けてしまったのだから当然とも云えた。
対して、ほぼ同時期ながら「北海道鉄道文化協議会」なる非営利団体が主導したここでの運転は、北海道におけるC62の現役晩年当時の運行の再現に意が注がれ、展示運転のひとつの理想が実現していた。隧道に入れば車内に煙の充満し、窓を開けて旅すれば顔は煤で汚れ、ホームの洗面台はそれを洗い流すために在ったことを思い出させてくれたのである。
しかしながら、欧米での多くの事例に範を取ったこの試みも、歴史に敬意を払わぬ民族には挫折を余儀なくされる。この運行に集った多くの人々は、北海道鉄道文化協議会が全ての責を負った運行の仕組みを知ってか知らずか、自家用車で沿線に乗り付けては、同協議会は疎か鉄道会社にも一銭も寄与することの無く立ち去るだけなのだった。この辺りについては、内地版の 小国 (米坂線) 1972 にも書いている。

ほぼ10年を経て降りた比羅夫の惨状は以前にも記したけれど、優等列車廃止後の山線の情報には疎く、1961年にヒラフスキー場への下車駅としてスキーロッジを模しての観光駅舎に改築された駅本屋が、宿泊施設と化していたには驚かされた。それを目的の嬉々とした観光客を横目に、撮影を終わって下りの気動車を待った鉄道屋としては、どうにも居心地の悪い思いをしたものだった。
さて、撮影を終えて駅に戻った鉄道屋は3人だけだった。あれだけ居た撮影者の大半はやはり自動車利用と云うことになる。

夏の日の9163列車。列車名だけはどうにも戴けなかった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.


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