"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

大沼 (函館本線) 1989

onuma_07-Edit.jpg

北海道鉄道敷設法(1896年法律第93号)第二条に規定された予定線 「後志國小樽ヨリ渡島國函館ニ至ル鐵道」の仮免許を1897年4月29日に得て、1899年10月に設立された函樽鉄道株式会社が当初に計画した経路は、本郷(現渡島大野)から無沢峠に隧道を穿って小沼畔に至り、その西岸を通過して宿野辺(現駒ケ岳)に達するものであった。ほぼ現在の国道5号線に該当する経路である。
これが東岸経由に改められ大沼に停車場の置かれたのは、そこ入植していた宇喜田秀夫の尽力によるところが大きい。

1863年、香川県香川郡一宮村(現在の高松市一宮)の、おそらくは素封家に生まれたであろう宇喜田が、そこでの開拓を志して北海道に渡ったのは1892年のことであった。北海道庁に勤める傍ら道内各地を探索した末に、その景観に惹かれて大沼の地を移住先と決め、道庁を辞して一旦故郷へと帰ると、1897年5月に同郷の5家族22人を引き連れてそこに入植、自身は宇喜田農場を創設して金比羅山から吉野山山麓の一帯を開墾したのだった。金比羅山とは宇喜田が故郷讃岐の金毘羅宮の棟札を納める祠を建てた開墾地の流山への命名である。
従前よりその動向を注視していたと思われる宇喜田は、入植後まもなくに函樽鉄道による鉄道敷設計画の具体化を知ると、1898年に会社発起人へ鉄道の軍川村への誘致の陳情を行い、農場内の用地の提供も申し出たのだった。
会社側も東岸迂回により湖中の土木工事を要し、また距離も延伸するものの、然したる集落の無い西岸経由に対して開墾も進みつつあり、また鹿部村への道も通ずる優位性を認めて経路を見直し、併せて現位置への大沼停車場の設置も決定したのである。
1903年6月28日の開駅により軍川村・鹿部村への入植は促進され、その後の農地拡大への基礎インフラとなり、函樽鉄道改め北海道鉄道(初代)を1907年に買収した鐵道院も、その際に大沼・小沼の近接地に大沼公園停車場を設け、それは観光地としての発展に寄与した。

この本郷-森間には峠下隧道までと宿野辺から森へ下る区間に1/50勾配(=20‰)が介在して、遅くとも小樽まで全通して列車単位の増大してからは補機を要したと思われるのだが、函館市立図書館の収蔵する1900年代初頭の撮影と推定される絵葉書には小沼畔の下り列車に北海道鉄道のC2形と思しき重連が記録されるも、狭戸付近での撮影は上下列車ともにそれらしき連結は見られない。おそらくは列車本数も少ない当時には運用効率からも片勾配の終端で解放していたと考えられ、その当時より大沼はその作業駅であったろう。
七飯町歴史館の広報誌に所載の写真から開通時の大沼は、上下本線に中線を持っていたと伺えるが、左画角外には機関車の通路線も存在したのではなかろうか。それは、鐵道院年報によれば1911年度に増設と読める。1960年代の実見では、その函館方に赤い円錐形の屋根の給水塔に転車台も設備していたと記憶する。これも古い時代からのことと思われ、ここで解放された補機は水を呑んでから本郷へと単機にて転がって往ったのである。連結駅の本郷側にはなかった設備は、ここに良質の水の得られた故だろう。
本線有効長はともかくも、大沼は開業当時よりほぼ現在と同じ構内規模を有したと推定され、所載写真の3線は現在の1番(砂原上下本線)・中線(砂原副本線)・3番線(駒ケ岳上り本線)に該当して乗降場位置は動いていないことになる。

写真は、上り列車の到着を待って駒ケ岳回り線に進出する3065列車。背景が吉野山である。
宇喜田秀夫は、大沼への砂原線の接続による要衝化を見届けて1948年に没した。藤城経由線の未成は心残りだったのではなかろうか。
(文中敬称は略させて頂いた)

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://northernrailways.blog.fc2.com/tb.php/585-5994572f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。