"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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大岸 (室蘭本線) 1991

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未成に終わったものを含め北海道の鉄道の計画や建設にかかわる資料を読むと、その大半の敷設目的に、地方開発、林産資源開発と並んで地下資源開発と記されるのを多々眼にする。鉱石移出の輸送手段として鉄道は資源開発に不可欠であり、採掘の採算性、強いては鉱山の規模をも左右する要件だったのである。

北海道に於ける鉱山開発は徳川幕藩体制末期に事例の見られ、幕府は1861年に米国より鉱山技師を招聘し渡島・後志地域の鉱床調査に当たらせている。政権を引き継いだ明治政府も1869年に開拓使を設置すると、雇い外国人の地質学者ベンジャミン=ライマンに全道の地質調査を命じ、これは1876年に日本最初の広域地質図である「日本蝦夷地質要略之図」として報告された。1886年に置かれた北海道庁も地質調査所(1882年に創立)のライマンの指導を受けた技師らを動員して数次に渡る調査を継続し、道内の地下に眠る鉱物資源の全体像が次第に明らかとされるとともに、これらに基づく試掘の行われ、道内には多くの金属・非金属の鉱山が開かれた。欧米や大陸の列強に対して富国強兵を国策とせざるを得なかった明治政府に、国内での資源確保は喫緊の課題だったのである。
採掘にはコストに見合う規模を要して、大規模化は移出手段の鉄道と不可分に在った。その延伸とともに沿線地域に鉱山の開かれて往ったとして良い。

1928年9月10日に長輪線として長万部-東輪西(現東室蘭)間の全通した室蘭本線の沿線にも、金・銀・銅を含む黒鉱などの熱水性鉱脈鉱床に倶知安周辺まで続く褐鉄鉱の鉱床が確認されており、鴻之舞での金産出に湧いた1910年代の北海道は全国から鉱山師(やまし)を集め、この長万部から虻田に至る一帯にも金鉱脈の試掘権申請が輻輳したと云う。ここでは、鉄道開通以前からの静狩に加えて、後に礼文、小鉾岸(大岸)、来馬、豊浦、虻田、伊達、仲洞爺、白竜などの鉱山が稼働した。
小鉾岸の鉱区では1921年の試掘にて鉱脈が確認され、これの鉱業権を隣接の来馬鉱山ともども買収した住友合資会社と川崎造船傘下の静狩鉱山との合併にて設立の静狩金山株式会社による1933年からの本格操業には、ペタヌ川の谷から馬車で運び出された鉱石は、小鉾岸(現大岸)から製錬所を持つ小坂鉱山、日立鉱山の遥か内地まで積み出された。出鉱の良質であったため大手鉱山への売鉱にて十分に利益の確保されたものだが、その長距離輸送をともなう取引も鉄道の存在があればこその採算と云えよう。
豊浦鉱区を加えての小鉾岸鉱山株式会社発足後の1941年に豊浦青化製錬所を建設・稼働したのは、折からの戦時下における金増産の国策により、良質鉱とともに大量に産出する低品位鉱の自家処理を要したためであった。
採算を度外視した低品位鉱の精錬は私企業としての体力を奪い、徴用による熟練労働力の不足からも1943年には閉山に追い込まれ、大岸の駅の賑わいも過去のものとなった。

道内の地質調査、鉱床探査は、戦前・戦後を通じて連綿と継続され、1958年10月の地質調査所北海道支所の報告には実に多くの鉱山・鉱床位置が記載されている。鉱山として採掘中のものが多いが、未調査鉱山に分類しての記載もかなり含まれる。鉄道がまだ輸送の主役に在ったこの時代までは、鉱床の確認されても鉱石の搬出や製品の移出手段の無ければ、余程の大露頭でも無い限り放置され続けていたのである。

写真は、大岸第一キャンプ場を駆け抜けて往く3059列車。それを小さな岩山から見下ろすのは好きな景観で、幾度かそこに立っていた。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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