"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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上目名 (函館本線) 1975

kamimena_02-Edit.jpg

静寂の戻った上目名。喧噪の頃には撮れなかった構内風景である。
この信号場のようだった駅の開業は、線路の開通からおよそ10年を経過した1913年9月21日と記録される。列車回数の増加にともない熱郛-目名間の15キロあまりに列車交換の必要を生じての設置であろう。寿都郡・磯谷郡を分ける分水界を頂点に五十分の一勾配(=20‰)が連続する区間ゆえ、その頂点位置となる第二白井川隧道の出口側に用地を求め、函館桟橋起点147K637Mから148K150Mの500メートル区間にレヴェルを得て構内としていた。

先住民族による「mena」とは「細い支流」の意であり、現在の尻別川支流の目名川を指したものであろう。蘭越町の町史を読むと、その合流点の一帯、メナフトと呼ばれた地域が当初の目名と知れる。尻別川流域への入植は河口部から始まり、モリベツ(現在の初田)周辺地区を経て、1883年にメナに至った。現在の名駒地区である。ここが目名の中心集落となり、その上流域が中目名、上目名と順に名付けられた。中目名が現在の目名町であり、上目名とされたのはカイカラ沢と呼ばれた貝殻沢川の流域あたりであった。このカイカラ沢には1901年に駅逓が置かれ1906年には教育所が開所とあるから、その頃までには開拓の進んでいたのだろう。
1913年に開設の函館本線の停車場は、もっとも近い集落であったこの上目名を名乗ったのである。これを信号場とせず旅客も貨物も扱ったのは、当時に鉄道の建設や駅の設置は周辺の開拓に資することが求められたゆえと思われる。実際に構内下り方に続く長い雪覆いを抜けて左に回る辺り、起点149キロ付近で車窓左下に見える樹林に還りつつある平坦地は、かつての開墾地である。その先の上目名川沿いに開拓農家が在ったと云う。
加えて、1935年にはその上流の大玖山に黒鉱の鉱床が発見され、1940年より本格的な採掘が行われた。大玖鉱山である。上目名駅は鉱石の積出駅となり、それは国富の製錬所に送られた。蒸機ブームに湧いた1970年頃を30年遡って、駅本来の賑わいがここに在ったことになる。ここは確かに、峠の駅には不釣り合いな駅前広場を持っていた。積出には不可欠のスペースだったのだろう。

函館山線区間において唯一、ここは島式乗降場の駅でもあった。上下列車の扱いの便から互い違いに配置の対向式乗降場ばかりの中に在っての島式の採用の事由は知れない。峠頂上と云う用地の制約からだろうか。このお陰で、本屋側の下り本線に先に列車の入ってしまうと、上りから降りてもすぐには本屋に向かえず、それに乗ろうとすれば下りの客車のデッキによじ登らねばならなかった。写真のごとくに、である。
列車は121列車。524Dとの行違いを待つ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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コメント

こんばんは。
お写真のような古い客車、冬の季節にも車内は暖かくなっていたのでしょうか。
ホームに出るためによじ登るデッキはドアが手動で開けられ、蒸気で暖房、と聞けば、どうにも寒々しい印象を受けます。
しかし、それなら着込んででも、この時代の汽車に乗ってみたかったという思いもあります。木の内装の列車に揺られて、見知らぬ土地を旅したら、どれ程豊かな情感があっただろうか・・・
1枚のお写真を拝見し、自分の知らない時代と場所の鉄道を、あれこれ想像するのも楽しいものですね。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

  • 2014/02/17(月) 02:03:58 |
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Re: タイトルなし

こんばんは。

ここでの別記事にも書きましたが、気動車の温水暖房は容量の不足気味で効きの悪いこともありました。
やはり、寒冷地の客室暖房はスチームに限ります。
ただ、それは機関車から延々と暖房管で送込む訳ですから、編成の長いと前の方と後部とでは効き具合は異なり、
後が快適なら機関車に近い方はTシャツ1枚でも汗ばむような暑さでした。
逆に、氷点下20度近い深夜を運転する夜行急行など、さすがに編成後部までには蒸気の冷えてしまうこともあって
暖房補機を要したものです。
この頃には、札幌に旭川、釧路など大きな駅の広い待合室もスチーム暖房が大半で、今の温風暖房などとは
それは比べ物にならない程に暖かでしたよ。

  • 2014/02/17(月) 23:48:00 |
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つるみんがものすごくなっとくしているのだ!

田下小学校の跡を拝見した後、
昔、金・銀の採れた鉱山(上目名鉱山?)があると聞いて、
国道から駅のシェルターをくぐったことがあります。
そのころには写真のような駅舎もホームもなく、
シェルター右の鉱山に通じる道も
まったく残っていませんでした。
駅逓や学校」があった時代を想像ができませんでした。
情報ありがとうございました。
・・・みならいかのん

静狩・大岸・茶屋川(上国縫)あたりの
渡島半島には金なんかが採れたと
いいますが、
鉱脈がつながっているのかもしれません。
上目なの駅の歴史はわかりませんでしたが、
最初は信号所だったんですね。
「黒鉱」というと「石炭」や「鉄」ではなさそうですね。
すいません、辞書に載ってませんでした。
・・・はじめっち

車で訪問したけんど、
駐車するスペースがなくて、
「駅前広場があった」というのが
にわかには信じられないのす。
・・・ゆたか

島のホームから降りるとき、
通路をふさいでしまうというのが、
なんかすごい体験なのだ。
ホームの中ほどに通路があると
写真みたいな長い汽車が停まると
確かにホームに行けないのだ。
そうか、だから昔の汽車は扉が自動でなくて、
上りの汽車から降りた人が下りの汽車の乗降口通って
駅にいったのか、なるほどなのだ!
・・・つるみん

  • 2016/01/28(木) 14:51:18 |
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Re: つるみんがものすごくなっとくしているのだ!

こんばんは。
この頃までなら駅前の土場だったらしき痕跡は十分に確認できました。この停車場が無くなって30年。
今や完全に野に還っていることでしょう。

客車の乗降扉は手動でしたからね。本屋への通路が塞がれているならデッキを抜けて往けば良かった訳で、駅員も当の旅客もデッキの昇り降りなぞ、特に危険とも思ってはいませんでした。ただでさえ、汽車ホームと呼ばれたホームの高さは低くて、列車に乗り込むとは、よじ上ることでしたからね。

  • 2016/01/28(木) 23:08:09 |
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