"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

植苗-沼ノ端 (千歳線) 1970

uenae_04-Edit.jpg

北海道に限らないが、各地域の町史や村史に付された年表を読んで往くと、戦後に「何々地区電化」と云った類いの記述を多々眼にする。これは、戦前の早くから電気の通じていた市街地に対して、そこから離れた集落などにようやく送配電線が設備されたことを意味している。
1882年に民営会社として始まった国内の電気事業は、小規模事業者の乱立から1910年代に所謂5大電力会社に集約されたものの、収益優先から農村や山村への配電は一向に実現しなかった。戦時の電力国家管理化もそれの促進を事由のひとつとしていたのだが、国家事業による推進は、占領軍の意向からの1951年の電気事業再編政令にて全国に9社の電力会社の公益企業体としての発足を背景に、1952年の「農山漁村電気導入促進法」(1952年12月29日法律第358号)を待たねばならなかった。この法律は文字通りに、僻地集落における小規模発電設備や電力会社送電線の引込みの、資金貸付や補助金の交付による促進を目的としていた。対象となる集落は「未点灯集落」と呼ばれた。

広大な土地の奥地にまで拓殖の進められた北海道では、そこに電気の通じないことは常態であった。前述の年表への記録には、中心集落からさほどに離れていない地区も散見されて、未点灯集落は奥地ばかりでなかったことも知れる。人の生活する開拓地すらの状況であるから、より奥地へと伸びる鉄道の駅もまた同様であった。
国鉄の部内誌「国鉄線」の1952年11月号に所載の道内拠点駅の駅長を集めた座談会記事には、帯広駅長による「釧路局管内に9箇所の駅と3箇所の中間線路班に電燈が無い」との発言がある。おそらく、そのような事例は全道に存在したものだろう。信号灯や閉塞器には蓄電池を用いるが、駅本屋や詰所に官舎の灯りはランプである。特に集落も無い駅間の原野や山中に在った中間線路班での家族との生活は想像するに余り在る。この時期、国鉄もまた線路沿いに電力・電灯線の延伸を進めねばならなかったのである。

千歳線の植苗に降りて、1969年に増設の上り線(下り運転線)に沿う小径を歩くと、やがてそれを越える踏切(*1)に往き当たる。この40年前には蛇が我が物顔で横切っていた人気の無い土道の踏切は単車の通行がやっとの細道であった。そして丘陵を巻いて湿原に降りると室蘭本線と千歳下り線の交点まで伸びていた。そこに在った東植苗中間線路班への連絡道だったのである。
この線路班が何時頃に設置されたかは分からないのだが、1948年に米軍の撮影した空中写真(*2)には現千歳下り線(上り運転線)沿いに詰所や官舎の並ぶ様子が伺える。
湿原の直中を往くばかりの沼ノ端-遠浅間8.9キロの中間となれば集落から電灯線を引く訳にも往かないから、苫小牧の至近にもかかわらず、かなり遅くまでランプ生活だった可能性が高い。
......................................................................................
(*1) 苗穂起点57K080M-当時に名称表示は見当たらなかったが、現行の植苗東通踏切である
(*2) 上り線の増設工事が認められるが、これは戦時下に着工され、その後に放棄された痕跡である。現在の上り線位置とは異なる。これに沿っての建築物は線路班ではなく工事関連とも考えられる。
なお、当該空中写真の閲覧には検索画面表示の後にもう一度クリックが必要。

植苗東通踏切に接近するのは、臨貨9755列車。本輪西から白石経由新札幌(現札幌貨物ターミナル)への石油輸送列車である。
道内未点灯集落の電化工事は、北海道電力によれば1973年まで続いたとある。
札幌で白黒テレビの番組に興じていた子供の頃の、同じ北海道での電気の通じぬ生活を後年に知り愕然としたことは前に書いた。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
関連記事

コメント

こんにちは。
未点灯集落という言葉、初めて伺いました。現実味のある生々しさがありますね。
鉄道の保守も今以上に人手で行っていた時代、現地現地の人としての生活は、中には厳しいものもあったのでしょう。ランプでの生活、熱源も石炭や薪でしょうか。
今、札幌の経済圏のようにも見える千歳線、車窓に映る景色も、急激に変化したことでしょう。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

  • 2014/02/28(金) 15:28:58 |
  • URL |
  • 風旅記 #O7xVy9HA
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

こんばんは。
停車場なり中間線路班の職員は、そこに家族とともに居住する職務上の義務が課せられていました。
それが、どんな山中であれ原野の只中であれです。
慣例的に「鉄道官舎」と呼んでしまいますが、戦後の国鉄においては正しくは「鉄道宿舎」です。
これには第一種から第三種があり、指定又は義務居住宿舎は第一種に区分され、手元に在る1955年度の統計では全国に31268戸とあります。
ところが、北海道の僻地に存在した宿舎は一般宿舎である第三種とされていました。
鉄道しか足の無い時代には、義務以前に勤務先に併設されたそこに居住するしかなかったと云うことでしょうか。
それは特に僻陬(へきすう)地宿舎と呼ばれて、同統計に約9000戸と但書きがありました。9000家族と云うのはなかなかの数ですね。

  • 2014/03/02(日) 23:57:56 |
  • URL |
  • Wonder+Graphics #-
  • [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://northernrailways.blog.fc2.com/tb.php/571-2d79f63a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad