"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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夕張 (石勝線) 1989

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千歳 (千歳線) 1985 の続きである。

1950年頃より、広島村と千歳町の間で燻っていた追分線の分岐地点問題については、『北海道鉄道百年史』に1961年5月に北広島から千歳に変更した旨の記述が在る。けれど、これは国鉄部内に留められた了解・決定事項と推定され、公表されることは無かったのである(*1)。おそらくは、1958年に双方を含む関係自治体より分岐点や経由地点に関しての国鉄当局への一任を取付けていたためでもあろう。
1964年3月23日には日本鉄道建設公団が発足し、石狩・十勝連絡鉄道建設の所管は同公団に引き継がれ、同年6月25日付にて日本鉄道建設公団法に基づく「工事線」(*2)に位置づけられて着工が決定した。けれど、これも直ちに公表されるで無く、正式に地元が知るのは1965年4月7日に発表の「1965年度日本鉄道建設公団事業計画書」であった。そこには、建設線名追分線として千歳-追分間17キロと記載されていた(*3)。

このように、追分線は石狩・十勝連絡線を札幌に直結する経路として注目され、それと一体に扱われたが、本来には夕張地区との短絡線である。1950年代初頭時期には千歳町と追分村に夕張市(何れも当時)も加えての関係個所への陳情活動が行われたことがある。
これは、1976年まで千歳から分岐していた陸上自衛隊東千歳駐屯地への専用線の存在を背景にしていた。この専用線は、アジア太平洋戦争末期に日本海軍が千歳第二飛行場の建設資材運搬用に敷設したもので、戦後に進駐米軍が接収し1950年当時には千歳から約9キロの延長を有して追分まで直線距離にて8キロの位置まで達しており、米軍もその利用には好意的であった。千歳町には途中駅を設け開発に資する思惑も持っていた様子である。
石狩・十勝連絡線が工事線となり、前記の追分線の分岐が千歳に内定していた1961年当時、国鉄当局もこれに興味を示し、管理の移管されていた陸上自衛隊と千歳市による協議会に参加して調査も行っている。結果、線形が改良を行っても高速運転に不適として転用はしないものの、その一部路盤の利用は可能と結論していた。
ところで、この協議にかかわる千歳市の資料によれば、この頃、行政側ばかりでなく国鉄も千歳分岐に関して航空機との連絡上の利便性も念頭にしていたとある。首都圏-北海道連絡では、分担率の浸蝕が始まっていたとは云え、まだまだ鉄道が優位に立っていた時代であったが、北海道支社が将来の連携の必要性を意識していた発言とも取れ興味深い。この認識は、後に鉄道建設公団にも共通のものだったろう。

千歳からの分岐には、東千歳駐屯地は良いにしても延長上の馬追丘陵に北海道大演習場(東千歳演習場)が存在して、その地内は勿論隣接しての通過に自衛隊が難色を示したため、鉄道建設公団は演習場を南側に迂回する経路を選択し、千歳より3キロを南進した起点44キロ付近に停車場を設けて分岐する線形を代案としていた。公団の文書には将来の航空機との連携も前提に、その位置を当時の空港ターミナルビル至近位置としたとある。自治体も国鉄当局も一部で共通認識となっていた空港連絡が、経路迂回にともなう地理的分岐位置の南転により、ようやく一歩具現化したと見て取れる。ここに将来に千歳空港駅となる停車場が計画上に登場したのだった。
(この項 千歳空港 (千歳線) 1988 に続く)
......................................................................................................
(*1) 1961年5月と云えば、同年4月25日付にて前回記事の脚注(*1)に述べた石勝線が建設線名狩勝線の新得-日高間として着工線に昇格している。これの先行は通称-狩勝新線の建設が目的であり、同年7月14日に路盤工事認可を得たのは、追加された落合線の落合-上落合間と狩勝線の新得-串内間であった。この工事は鉄道建設公団に承継された。
おそらくは、この石勝線の着工線昇格に併せて追分線の分岐点も決定したものと推定している。
(*2) 鉄道敷設法に基づく国鉄における着工線に当たる。
(*3) 他には、金山-夕張間紅葉山線、新得-日高間狩勝線である。狩勝線は(*1)に述べた通り鉄建公団線としての再掲である。

追分線列車の一方の始発駅、夕張での1828D千歳行き。
1985年10月13日に新夕張起点16K890Mに移転していた夕張駅である。1971年11月15日に廃止された夕張鉄道の終点夕張本町とほぼ同位置となり、市役所裏手に位置し市中心部に至近ではあったものの、旧駅の堂々とした本屋に比すれば棒線で簡易型乗降場にダルマの待合所は地域の衰退を体現するような駅だった。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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コメント

夕張駅

おはようございます。
私は1代目、2代目の夕張駅に行ったことがなく、夕張市の財政破綻後に3代目の駅を訪れたのみです。
ホームに降り立っての第一の心象は、「本当にここが夕張なのか?」でした。
http://kazetabiki.blog41.fc2.com/blog-entry-1179.html
日本中の殆どの人が歩かなくなっています。生活の必要のためには歩かなくなっている、とする方が正しいでしょうか。
豊かになった証拠でもあり、一概に賛否を語る話ではありませんが、在来線の中でも、長距離輸送に資さない盲腸線は、より地元の生活の背景にそぐわないとジリ貧になっていきます。
時間軸はずれますが、富山のようはスモールタウン化の発想もある今、市街中心部から敢えて離れた場所に駅を移してしまったことは、実に悔やまれることだと思っています。
2代目の駅を終着駅としながら、今の場所にも(観光客の需要があるならば)新駅を作るのが、振り返れば良かったのではないかと思います。もはや体力の失われた夕張とJR北海道だけでは無理な話であるのが、悔しいところです。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

  • 2013/12/26(木) 10:45:15 |
  • URL |
  • 風旅記 #O7xVy9HA
  • [ 編集 ]

Re: 夕張駅

こんばんは。コメントありがとうございます。
現在の夕張停車場は、鹿の谷から僅か1.3キロ。それは夕張の市街地手前ですから、
その第一印象は、さもありなんの部類ですね。
ここへの再移転の夕張市担当者による顛末記をどこかで読んだ気がするのですが、
結果的に中心部への無料バス運行を強いられるなど、失敗だったようにも思えます。
DMVに飛びつくあたりの遠因でもあるのでしょうが、
肝心のそれの実用化は、開発の北海道旅客鉄道のゴタゴタで霧散しそうな気配です。

  • 2013/12/27(金) 01:18:53 |
  • URL |
  • Wonder+Graphics #-
  • [ 編集 ]

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