"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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銀山 (函館本線) 1981

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ここにも幾度か書いているけれど、銀山は山間の停車場でも無ければ、山中に位置する訳でも無い。稲穂嶺麓の東斜面に置かれた駅なのである。それゆえ構内は明るく開放的なイメージがある。東の余市川の川底平野と凡そ80メートルの比高に眺望も開ける。

1905年1月29日の開駅が北海道鉄道(初代)函館-小樽中央間全通に3ヶ月を遅れた事由はわからない。その際に廃止された山道から稲穂隧道を穿っての小沢までの開通は1904年7月18日であるし、積雪時期の開設には工事の同時に進められていたものと思われる。
開駅時に付与された銀山の駅名は、近隣、稲穂峠の北約2キロのルベシベ川上流に存在し銀を産出したルベシベ鉱山に由来とされているが、これは少し怪しい。1911年に農商務省地質調査所の発行した「鉱物調査概報」によれば、同鉱山は銅鉱山とされている。しかも稼働したのは1890年頃のことで、この1911年当時には既に廃鉱状態に在ったと云う。もっとも、採掘されたのは黒鉱だったから銅鉱石であると当時に周囲には金・銀も濃集されて、精錬により銀の採取も行われていて不思議は無い。銅よりも高級金属の銀山を名乗ったのは、ルベシベ川の余市川に注ぐあたり、当時に馬群別原野と呼ばれた地に開かれた鉱山関係の集落の方であった。この集落が鉄道の開通した頃まで存続したものかは分からないが、仁木町史には銀山小学校が1901年に開校と記され、周辺には入植者の集落も成立して(馬群別原野への入植は1894年からとされる)、地名としてはより南へも拡張して残り、馬群別原野を見下ろす位置に開設の停車場名に採用されたのが正解であろう。

ここが鉱石の積出にて賑わったのは、ルベシベ鉱山では無く1890年以降に探鉱が行われ1913年から本格採掘のなされた明治鉱山による。余市川上流白井川の右岸に在ったそれより銀山駅下までの約13キロに馬車軌道が敷設され、そこに運ばれた鉱石は索道にて駅構内積出場まで牽き上げられたと云う。ここでの産出も銅鉱石の黒鉱であり、移出先は国富の製錬所であった。1927年までに約10万トンの粗鉱を出鉱したが、同年銅価格の下落により休止状態に陥った。主力はさらに上流に開かれていた同系の轟鉱山に移るが、ここの黒鉱は金品位が高く1933年に自前の選鉱場と青化製錬所が完成しており、1938年には明治鉱山も再開されたものの、銀山駅からの積出がいつまで行われたものかは分からない。

国土地理院の地形図を開けば、銀山駅の南、稲穂嶺から稜線の続く標高640.5メートルの三角点峰に「銀山」の名が見える。これも銀山集落の名称が地名、字名となり、それの転嫁されたものと推定され、如何にも山の名らしいのだが、銀山地名の発祥したものでは無いので注意を要する。但し、現在ではこの三角点が国土における基本基準点のひとつ、2等三角点の「銀山」とされている。誤解を招きかねない命名である。

夏の日の朝、光に溢れる東斜面の駅。
通票の授受に速度を落として通過するのは、この季節なら函館から陽光を走る11D<北海>。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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