"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

常紋信号場 (石北本線) 1998

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常紋信号場 (石北本線) 1983 の続きである。

将来の幹線鉄道を低規格線として建設せざるを得なくなった鐵道院であるが、この網走線とユウベツ原野との連絡線の経過地には、網走を起点に常呂からサロマ原野を通過する案と、野付牛からムカ原野を通過し常紋郡境の山稜を越えてイクタラ原野に達する案との常呂郡・紋別郡ともに地元同士の争いが在った。
その経緯の詳細は省くが、最終的に鐵道院は地形的には険しい常紋郡境越えの後者を選択した(* )。野付牛を経由することに加え、留辺蘂や生田原など沿線に集落が発達しつつ在り、集貨集客の利を判断したものであろう。道庁には何れの経路にせよ沿線の拓殖に資するに違いはなく、後は速成を要求するのみであったと思われる。

ここでの762ミリ軌間の採用は、帝国議会の協賛した185万6400円の予算にての全線喫緊の開通に、さらなる低規格化を要してのことであった。野付牛-留辺蘂間の1067ミリ軌間での建設は網走線を通じた建設資材搬入のためとされる。
しかし、建設誌には、常紋隧道を含む土工工事は1067ミリ軌間に対応して施工とあるから、762ミリ軌間は開業関連工事の費用低減を意図してのことである。その工事費は153万8611円と記録され、予算との差額は、この区間のみに用意される軽便規格の機関車や客車・貨車の車輛費であったろう。それが予算に収まったものかは調べ得ていない。

留辺蘂以遠区間は、1912年に着工して難工事であった常紋隧道を含む下生田原(現安国)までが1914年10月5日に、社名淵(後の開盛)までが1915年11月1日に開通し、さらに下湧別までの延伸工事を行っていたこの年に至り、第一次世界大戦による軍需景気を背景に北海道庁への拓殖費は増額され、また北海道鉄道敷設法第二条に規定された名寄から湧別への区間の1917年度よりの予算化も明らかとなった。
鐵道院は、この予期せぬ事態に着工していた社名淵-下湧別間を急遽1067ミリ軌間に変更して1916年11月21日に開通させると共に、これに先駆けて留辺蘂-社名淵の改軌に着手して同年11月7日に完成させたのだった。現在までに唯一の存在である国有鉄道における762ミリ軌間の41.9キロは僅か2年余りにて消滅、投下した車輛や留辺蘂における貨物積替施設などが無に帰して、道庁との行政二元化が二重投資を呼び込んだと見える。
そればかりでは無い。低規格の速成工事に、中間に常紋信号所(当時)を置いた奔無加(現金華)-上生田原(現生田原)には、当時の鉄道建設規程に規定された許容値一杯の40分の一勾配(=25‰)と半径15鎖曲線(=302M)の連続する線形が残されたのだった。
(この項 常紋信号場 (石北本線) 1984 に続く)
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(* ) これにて、サロマ原野通過線は1935年から36年に湧網東・西線としての一部区間の開業と、20年を遅れた。まして全通は戦後の1953年のことである。

落葉松だけが残されるのは、常紋の峠で一番好きな季節だった。それは道南では紅葉黄葉の時期に重なり、毎年に欠かさず渡道する動機となっていた。
黄金色に見下ろされて峠に向かうのは8556列車。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/125sec@f4+2/3 Non filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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