"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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静狩 (室蘭本線) 2010

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此処にも何度か書いているが、室蘭本線の長万部起点2キロから3キロ付近に所在する反向曲線は、線路を海岸線に移行させるために選ばれた線形である。ここで直進を阻んだのは、長万部川河口の低湿地から静狩まで10キロ余りに渡り続いた、600ヘクタールを越える面積の静狩湿原であった。湿原の呼称は近年のことで、当時には開拓すべき平坦地、即ち原野と呼ばれた。
しかしながら、海進期に海水の浸入した潟に数千年を経て厚い泥炭層が形成された高層湿原には、学術的価値が早くから認められ、その国内でも稀な水蘇泥炭地の植物群落の一帯は、国により1922年10月12日に「天然記念物保有地」に指定されていた。
この一大湿地帯が、日露戦争後の国力充実の必要性から更なる北海道の拓殖が叫ばれ、未開地の農地化がより奥地へと進んだ時期に至っても放置されたのは、その開拓に要する大規模な排水事業に目処の立たなかったゆえであり、決して希少な植物群落の保護を意図したのでは無かった。事実、1940年1月22日付でのおよそ170ヘクタール部分に始まり、戦後の1951年までに湿原全域で指定を解除されてしまい、農地への転換が図られたのだった。

ここで、1940年の最初の指定解除に至る経緯には静狩鉱山が深く関わっている。1937年からの日中戦争の戦時下に金属増産を国策として求められた同鉱山は、1938年に製錬所施設を拡張し、新たな鉱滓捨場と鉱毒沈澄池の建設地を必要として、それを静狩湿原に求めたのである。そして、それを後押ししたのが当時の長万部村であった。
村当局には鉱滓のズリを客土として湿原を埋立てての牧畜地化の思惑があり、鉱山からの税収増と合わせての一石二鳥を狙ったのであろう。「天然記念物保有地」の指定解除に「固有未開地売払出願」や「天然記念物保存の解除出願」を村議会での紆余曲折の在り乍ら国へ提出し、鉱山側と協調して北海道や文部省への陳情にも出向いて、それを手にしたのだった。長万部町史によれば、この間の公文書の保存は一切無い、とあるから、余程に村や議会幹部は鉱山に薬を嗅がされたと見て良い。
ところが、この鉱毒沈澄池は予定地の泥炭層があまりに深くて遮蔽の堰堤すらままならず、鉱滓ズリの投棄もまた湿地に阻まれて運搬用索道が山際にしか設置の叶わぬ有様で、村の思惑はことごとく外れてしまったばかりか、戦後に結局湿地外に築かれたズリ山を崩して埋立に用いようとしたところ、それはとても客土として使えない性状であった。このズリ山は、現在でも標高43メートルのピークとして室蘭本線の車窓に眺められる。
戦後に食料増産と外地からの引揚者の入植地を要して、静狩湿原には1951年5月から大規模な排水と埋立の事業が開始され、1954年の竣工にてそれの大半が失われた。現在には、不在地主の所有する6ヘクタール程が開発を免れて残るのみである。その数百人と云われる土地所有者の数から法的保護策も講じられず、稀少植物の盗掘が後を絶たないと聞く。

なお、先に述べた「天然記念物保有地」の指定解除に公文書の廃棄や村議会での紆余曲折の存在は、静狩鉱山が鉱毒公害の元凶でもあったからである。その被害の実相や水俣や阿賀野川公害と変わらぬ会社側の姑息な責任逃れについては、項を改めたい。(本記事に参照した文献資料もその際に併記とする)

国道39号線静狩跨線橋からの定番画角の既出をご容赦頂きたい。低い斜光線を往くのは8009列車。
近年に通信線柱が線路側に移設され、加えてのコンクリート柱にてうるさくなってしまった。遠く無い将来には背景に黒松内トンネルに向かう新幹線の高架橋が併走して失われる鉄道景観でもある。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f4+1/2 C-PL filter Ektachrome Professional E100G [ISO160 / 0.5EV push] Edit by CaptureOne5 on Mac.
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