"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

国縫 (函館本線) 1998

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先日、内地版の方に1970年頃の米坂線沿線の道路事情を書いた。→ 羽前沼沢 (米坂線) 1971
そのように、当時の旧2級国道は勿論のこと、主要道の旧1級国道でもバイパス建設や曲線、幅員の改修を終えたのは一部路線や区間に限られ、まして県道や市町村道の農村地帯に山間部など推して知るべきと云えた。それらは農道に林道と大差無く、降雨に糠るまない砂利敷きなら上等だったのである。
何より首都圏などから到達しようにも、高速道路網は整備の端緒に着いたばかりで、鉄道の撮影に自動車を使おうにも困難なのが実際であった。それゆえ、鉄道屋は誰もが列車で駅に降り立ち、そこから歩いていた。
勿論、当時にも自動車での撮影行動を実践していた人々も居たのだろうが、それを最初に標榜したのは1984年2月号を創刊号としたRail Magazine誌ではなかったかと思う。そこには創刊号から自動車利用前提の撮影ガイドが連載されており、1983年度末までに、東名・名神に中央道の他、東北道が鹿角八幡平まで、北陸道が米原より分岐して富山県下朝日まで、中国道・九州道が八代まで(小倉東-八幡間未開通)繋がったのを背景としていた。
以来に、鉄道撮影に自動車利用は当たり前となって今日に至るのだが、この間も鉄道に徒歩の鉄道屋を通して来た身として申せば、現在に撮影のマナー云々とされている問題の大半は、皆が自家用車使用を停止すれば霧散してしまうのではなかろうか。

とは云え、徒歩の移動に頼ったのでは到達に困難な地点が、地形的事由以外にも確かにある。ここ国縫の早朝撮影がそのひとつであった。
その駅前に在った大きな商人宿は、とうの昔に失われており、そこへ早朝に立とうとすれば長万部からの移動を要したのである。いくら鉄道利用と徒歩を旨としても、大型貨物自動車の行き交う未明の国道を10キロ近く歩く気にはなれず、勢いタクシーに頼らざるを得なかった。(それでも中丿沢までの5キロなら歩いていた)
ところが、長万部のタクシー会社「おしゃまんべ交通」の営業は朝6時からなのである。その周辺地域の八雲にせよ、虻田(洞爺)にせよ、小規模な豊浦ハイヤーでさえ24時間営業の原則にもかかわらず、ここだけは早朝に動いてくれない。何処に移動するつもりだったか覚えていないが、1970年代の終わりに既にそうだったと記憶する。これを会社に問うと、函館からの始発特急の到着に合わせてのことらしい。当時なら青函深夜便から接続の<おおぞら><北海>、今なら<北斗星>と云うことになる。
その<北斗星>が目当てなのだから、仕方なく前夜に電話もしくは駅前の本社に出向いて交渉したものだった。10キロはそれなりに長距離(業界で云う"ロング")なので、その前夜から夜間勤務のドライヴァによっては勤務時間を越えて朝に走ってくれたからである。けれど、こればかりは数日前から交渉と云う訳にも往かず、とにかく長万部に宿を取って現地に向かうしかなかった。
交渉不成立の代案は、1・8001・3列車までと5列車との間の90分程の時隔を幸に、前者を撮り終えてから7時過ぎの函館行きバスでの移動としていた。早朝のこの便に同乗者の在った記憶はない。

国縫と云えば、国縫住宅前バス停に降りて至近の国縫跨線橋からの定番画角になる。既出をご容赦頂くしかない。
列車は、5列車<北斗星5号>。今にも残るこのスジは、函館以北がほぼ日中になって光線こそ安定しているけれど、写真的な面白味には欠けた。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f5.6+1/2 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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