"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

弟子屈 (釧網本線) 1976

teshikaga_01-Edit.jpg

後の弟子屈町域に最初に鉄道の開通したのは、標茶-跡佐登間を1887年12月に開業したアトサヌプリ硫黄鉱山からの鉱石輸送の専用鉄道であった。これは現在の弟子屈駅の東側を通過していた様子だが、そこに駅の設けられることは無かった。弟子屈町史には、ここ熊牛原野への最初の開拓入植の始まりはこの鉄道の開通がもたらしたと記すから、当時には原生林の続くばかりの原野だったのだろう。次第に沿線への入植者も増え、この専用鉄道は1892年6月21日に私設鉄道条例(1887年5月17日勅令第12号)による免許を得て、同年9月1日より新たに設立された釧路鉄道が運営した。中間に4箇所の旅客扱い停車場が置かれたけれど、この際も弟子屈は含まれていない。
ところが、硫黄鉱山は資源の枯渇により1896年7月28日に採掘を中止し、釧路鉄道も8月1日付にて営業休止届けを提出した。これは、この区間が北海道鉄道敷設法(1896年5月14日法律第93号)第二条に予定線(*)とされていたためで、政府もこれを遡った6月に買収に合意していた。鉱山側も沿線住民も国有鉄道線としての継承、営業再開を期待したのであろうが、鐵道院はこれを放置し、その路盤の一部を転用して釧網線を開通するのは遥か下った1929年8月15日のことであった。この際、その終端駅として現行位置に弟子屈停車場が置かれた。
鉄道の通じぬ間に、この地では畜産を中心とした農業経営が成功し、3000余人の人口をもって1923年には弟子屈村が発足、ここに中心集落が成立していたのだろう、釧路鉄道とは別経路上への設置であった。
1900年代初頭には道内への製紙工場の立地に伴い周囲の森林資源も注目され、開設された駅は農産物のみならず、木材の集散駅として機能することとなった。ここには、1933年に植民軌道の弟子屈線も接続して、勿論沿線からの木材の搬出にも使われた。
一方で同時期に現国道241号や243号線にあたる美幌峠や阿寒湖方面への道路の開削も進み、駅前には川湯とも結んだバスが発着して、ここは1934年に指定の阿寒国立公園の玄関駅ともなった。戦後には、1952年に放送されたラジオドラマにて全国的に注目され、その観光地としての地位を不動のものとした。

この駅は、既に人口集積のあった開拓地の中心駅として、無尽蔵とも云われた林産資源の供給駅として、そしてそれらが衰退しても観光駅として存立し続けた、誠に幸運な駅と云うべきであろう。
1982年に貨物扱いは廃止(計画では80年度に予定されていた)されたものの、旅客鉄道会社への承継後も直営駅を維持し、今や標茶に代わって釧網本線の拠点駅である。
けれど、それゆえに肝心の釧網本線から優等列車が消え、名称までも変えられた現在に最も不幸を囲っているのかもしれない。

(*) 「石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐵道」とある。実際の分岐は厚岸を釧路(別保信号場)に改めた。

弟子屈。老人がひとり汽車を待つ、日溜まりの待合室。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor28mm/F2.8  1/250sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://northernrailways.blog.fc2.com/tb.php/526-16d112dc
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad