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"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

渚滑 (名寄本線) 1971

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1921年3月25日開業のここは大きな駅だった。開駅間もない1923年11月5日にここへ接続した渚滑線は沿線林産資源や農産物の輸送に多大に貢献したとあるから、この駅自体の貨物扱いに加えてその継送操車に、貨車の操配にと広い構内を要したものであろう。上下本線に渚滑線の使用した副本線の他に貨物側線5線を有した規模(*1)は、隣駅紋別を上回っていた。おそらくは紋別への貨車操配も担ったものと思う。
渚滑線開業時にはその機関車運用に機関庫も置かれ、検修庫に転車台を含む施設は遠軽機関庫の分庫を経て、この頃にも駐泊所として機能していた(*2)。
120メートルの有効長を確保した乗降場に線内では紋別と中湧別にここだけだった跨線橋の存在も、急行列車の停車する大駅の証と言えようか。永く駅弁当の販売駅(*3)でもあった。

この日の下車は、上興部を1時間前に出た1691列車に後続の625Dがここで追いつくからである。その後に、ここから移動出来る列車は無いけれど、しばらくすると上りの1692に北見滝ノ上からの1792も到着する。その都度に繰返される構内入換えを眺め、少ない撮影チャンスにカット数を稼ごうとの目論みだった。
トラック輸送への転移も始まっていた時代ではあったが、それでも貨物列車は多くの財源を牽いて走っており、構内は活況を呈していたと覚えている。
海沿いを走る線区のそれからは潮の香りがする、と沿線に立ち始めた頃に気がついた。海産物が積み込まれてまもなくに出発したものだったのだろう。この名寄本線の列車も白い冷蔵車が目立つ組成だったと思い出す。
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(*1) 駅本屋遠軽方には貨物積卸線2線があった。
(*2) ここの検修庫が、廃駅後に駅構内を転用してのパークゴルフ場の室内施設として現存している。
(*3) 1964年10月1日現在の国鉄旅客局資料では、幕の内弁当-100円、すし-100円とある。

写真は、渚滑を出発する1691列車の遠軽行き。貨車解結を繰り返しながら全線を7時間余りかけて走っていた。
この頃に、線内の貨物扱い駅は13駅を数えた。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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