"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

鬼志別 (天北線) 1986

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猿払村域の天北線には4駅(他に仮乗降場の2場)が存在したが、村の代表駅は村名を名乗る猿払では無く鬼志別であった。
ここに集落の形成が先であったか、停車場の開かれたゆえであったかは調べていないけれど、ここに鉄道の開通したのは1920年11月1日のことで、宗谷村から分村しての猿払村の成立は1924年と記録される。それから半世紀以上を経て見た駅は市街地の外れに位置していた。市街地とは云っても、駅前通りは鬼志別川を渡り2分も歩かぬうちに家並みは途切れ、右をみれば村営住宅と思われる住宅が続いていたから、本来の集落規模は極めて小さいと知れる。

駅は、その開設から2年間は宗谷本線(*1)の終端駅だったから、その設備として機関車の駐泊施設に転車台も置かれて、後には稚内機関庫の鬼志別分庫ともされていた。1922年11月1日に稚内(現南稚内)までが全通すると小石から曲淵へ宗谷丘陵を越える勾配区間の補機基地を要したゆえである。
頓別・猿払原野の開拓と樺太への連絡を目的に建設されたこの線の停車場は300メートル近い本線有効長が確保され、副本線を設備した例も多く、加えてここは客車留置に使われたであろう側線も有していた。それは、その地位
にあったのは僅か4年ばかりに過ぎないのだが、幹線駅の風格と云えた。
本線有効長に比しての客車で3両程度のアンバランスな乗降場延長は、その4年あまりの間に運転された小樽-稚内間や函館桟橋-稚内間などの長距離列車(*2)を例外として、混合列車での客扱いに対応すれば十分との設計なのだろう。
本多勝一氏の著作『北海道探検記』には、開拓地への入植の入口駅として機能した姿がルポされており、実際に利用の多かったものであろう、猿払村史には1941年に駅舎改築との記述がある。それが、新築であったか、増築をともなう改築を意味するのかは知れぬが、駅本屋の下頓別や浅茅野、猿払に比べて一回り大きかったのは確かである。

北オホーツクの早い秋空を空中の腕木信号機梃子のケープルが横切る、鬼志別駅の暮色。
キハ22の単行列車は、鬼志別下り本線に停まる727D稚内行き。ここで、後部に回1742Dで小石から回送され滞泊していた1両を併結、さらに曲淵では前部に744Dで到着した2両編成を加えて、稚内到着時にはキハ22ばかりの4両組成になる。
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(*1) この音威子府から鬼志別までの開業時に線名の宗谷線を宗谷本線と改めたが、1921年10月5日付で宗谷線に戻された。しかしながら、1922年11月1日の稚内(現南稚内)まで全通直後には11月4日付にて再び宗谷本線とされた。
(*2) 全通と同時に函館桟橋-釧路間急行に接続する小樽-稚内間列車を設定。稚泊航路の開設された1923年5月1日改正からは、これに替えて函館桟橋-稚内間急行の運転を開始している。但し、急行券所要区間は滝川までで宗谷線内は普通列車であった。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/60sec@f4 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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