"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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上野幌-北広島 (千歳線) 1988

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(旧)西の里信号場-北広島 (千歳線) 1970 から続く

脆弱な線路規格であった千歳線も、戦後も1950年代に至って前述の連合軍専用列車が特殊列車として専用扱いを解除して室蘭本線経由の函館-札幌間急行列車となり(*1)、室蘭方面との準急列車も設定され(*2)、また札幌都市圏の成長に従い東札幌や苗穂、桑園が貨物扱いの比重を高めると、1960年10月改正使用開始にて丙線規格を乙線規格とする軌道改良に各停車場の本線有効長延伸や同時進入を可能とする安全側線の設置など輸送力増強と運転速度向上が進められ、1962年1月に東札幌-沼ノ端間に通票閉塞に替えて連査閉塞(*3)が施行され、1965年7月28日には同区間の自動信号化が完成した。
けれど、国鉄の輸送力増強「第一次五カ年計画」の成果である1961年10月1日ダイヤ改正における道内最初の特急列車が室蘭本線経由とされて以降、貨物輸送に加えて旅客輸送においても同線の主要経路化が進み、札幌-室蘭/日高方面列車に本州連絡列車も加わって千歳線には多くの優等列車が運転されることとなり、さらなる高速運転化と線路容量の増加が急務とされたのだった。この1960年代には市街地化の進展していた札幌市の南東部を通過していながら、その近郊路線としても機能していない体質の改善もまた要求されるところであった。1970年に至っても札幌-北広島間は40分から50分を要し、一日に気動車列車12往復が設定されるに過ぎなかったのである。

千歳線の線増計画は、その全線で1971年度までに線路容量を上回る列車回数の想定(*4)に基づくのだが、全列車が発着する札幌側の整備と不可分であった。ひとつには、1965年に本線の3線化が成りながら、主には千歳線の回数増により71年度には容量の超過(*5)が予想された札幌-苗穂間への対策。もうひとつは、札幌の構内改良と着発線増強である。
しかしながら、この区間の複々線化は当時に構想されていた高架線建設に持ち越さざるを得ず、応急には苗穂機関区との回送線としても使用していた本線北側の構内側線(通称-札苗通路線)の活用が要求され、本来の用途である接続専用線への配給運転の他、苗穂での上下線間貨車操配や札幌客貨車区の入換作業が支障して、一日あたり21回が限界であった回送線としての線路容量増加が課題となった(*6)。
このためには、札幌客貨車に苗穂機関区の機能移転と苗穂駅における貨車操配作業の縮小が欠かせず、前提として計画されたのが手稲の客車操車場に白石地区での貨物施設であった。
前者は戦前期より札幌地区貨物扱いの貨車操配施設建設目的に確保していた用地を転用して、1965年9月1日に札幌運転区として開業し札幌客貨車区業務の大半を移転した(*7)。一方の白石地区での貨物設備は、大谷地地区に1967年に着工した札幌市による流通センタ計画に連動して、その北端に用地を確保して1966年に着工、1968年10月1日より新札幌(現札幌貨物ターミナル)として使用を開始した。但し、70年度を目標に着工していた併設の貨車操配設備工事は中止された(*8)。
これにて、札幌-苗穂間通路線に回送列車60本運転が可能となり、本線3線の容量緩和から千歳線複線運転による列車増に対応し、札幌では生み出された用地の活用により桑園方に引上げ線を設備(*9)、札沼線ホームを延長・拡幅して優等列車に備えたのである。
* 脚注は追記にある。
(この項 上野幌 (千歳線) 1988 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

写真は、椴山の10パーミルを上る2列車<北斗星2号>。牽いているのは国鉄制式塗色の、当時にあたり前のDD51。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

(*1) 1952年4月1日付である。1954年10月1日に<洞爺>と命名。
(*2) 1959年9月22日改正にて設定の<ちとせ>を嚆矢とする。
(*3) 連動閉塞とする資料もある。
(*4) 例を挙げれば上野幌-西の里信号場で単線運転の93回となっていた線路容量に対して、1966年10月改正での列車回数実績の87本が1971年時点では135本、千歳-美々間の82回にはそれぞれ78本が133本と想定されていた。
(*5) 本線3本に北側の側線を加えた4線の線路容量354回に対して1966年10月改正での317本は1971年度に393本と想定された。
この区間は高架線となった現在も4線なのだが、線路容量は区間の基準運転時分や運転形態、着発線によっても決まり、機関車牽引列車主体の当時から高性能列車の通し運転が大半の現在では600回を越える。
(*6) 本線南側の構内側線は、当時に専用線配給運転が煩雑だったことに加え、回送列車運転には苗穂で全本線の横断を要するため検討対象とはならなかった。
(*7) 苗穂機関区の移転は見送られた。札幌運転区を将来的に電車検修区所とする方針転換に、苗穂の気動車施設も1963年度に増強工事を終えていたことによる。
余談ながら、この客操は貨車操車場構想を引き継いで1971年度までには本線抱込み式とする計画であったが、折からの財政問題にて見送られ、近年に至ってその用地にまで留置線の拡張を要して実現していない。また、1975年度完成予定にて手稲-札幌間を3線化しての出入庫線も計画されたが、これは将来の情勢変化の再検討などにより放棄された。
(*8) 計画時には、開設時1000両/日、将来に2000両/日の貨車操車能力を持つ函館・千歳両線による抱き込み式配線の操車場とされており、当初に450個/日、将来に1100個/日のコンテナ扱いとされた貨物駅機能は南側に分離して流通センタ内に設けるものであった。ここには石油の荷役にデポ施設も計画された。着工後の情勢変化にて操車場を縮小する計画変更後も苗穂を代替する操配線の抱き込み式は残されていたが、最終的に削除された。
(*9) 苗穂からの回送列車を構内北側を通過させて、一旦この引上げ線に送り込んでからのホーム据付けとすれば苗穂方での本線横断が避けられ、それだけここでの線路容量増加に資した。
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