"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

茶屋川 (瀬棚線) 1971

chayagawa_01-Edit.jpg

北海道のルーラル鉄道の多くは政治路線として良い。それらの建設計画を推進させたのは、沿線に広大な土地を所有していた貴族や華族と彼らの意を受けた政治家だったのだが、普通選挙の実現しない当時に政治家自身がそれら階層の出身である例も多々存在し、その場合には政治路線ですらなく、個人利権路線そのものであった。
背景には、軽便鉄道法の成立(1910年4月21日法律第57号)とそれの拡大解釈による鉄道省建設線への適用を議会が容認していたことがある。

瀬棚線の建設は、第一次世界大戦戦後恐慌下の1920年、原敬政友会内閣が総選挙で圧勝した直後に開かれた第四十三臨時帝国議会で決定され、1923年に北海道建設事務所の所管となって着工した。沿線地域の大地主であり埼玉県選出の政友会代議士であった加藤政之助が、弟勘助が入植していたこの地の、豊富な木材と鉱物資源の開発利権を目論み請願運動に成功したものであり、個人利権型路線の典型が見て取れる。鉄道省はその敷設理由を「沿線に擁する豊富な資源を始め中間に抱く利別沃野の開発」(瀬棚線建設概要 : 鉄道省 1932)のためとしていた。
1922年に制定の鉄道敷設法(1922年4月11日法律第37号)の別表には、その130項に「 膽(胆)振國八雲ヨリ後志國利別ニ至ル鐵道」が規定されていたのだが、これが顧みられることはなかった。

函館本線の大型蒸機を差し置いても、この線へと通ったのは渡島利別川が曲流した花石盆地の風景に誘われてであったが、勿論茶屋川から稲穂峠への25パーミル勾配区間にも立っていた。
茶屋川駅は既に駅員の無配置化がなされ木造の待合所のみが残されていたが、それは正面からみれば大きな三角ファサードの玄関が全てを占めるようで、おそらくは無人化時に不要となった木造本屋の駅務室部分を取り壊したものと思われた。無用となれば放置される例の多い中で、1961年と云う早い時期ゆえ国鉄にも余裕の在ったのだろう。

写真は、山瀬トンネル(786M)手前での1993列車。雪の線路伝いに随分と歩いた記憶がある。
C11形蒸機は、元はと云えば都市近郊の小運転用に計画された機関車なのだが、地方丙線にも多くが送込まれ、ここと言い、会津線と言い苦手な勾配線に挑んでいたものである。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
関連記事

コメント

茶屋川駅

こんばんは。

茶屋川駅は昔の駅の写真集で見たことがあります。
「交番のようだ」とキャプションがありましたが、不思議な駅だなあと思っていました。
「玄関のみを残した駅舎」でしたか。不思議なことをしたものですね。

一度実物を見てみたいと思いつつ、廃線まで行くことはありませんでした。残念。

  • 2013/09/26(木) 23:53:23 |
  • URL |
  • 風太郎 #VghDLGbI
  • [ 編集 ]

Re: 茶屋川駅

こんばんは。

その写真集は存知ませんが、交番とは云い得て妙と思います。なるほど。
取り壊した駅務室部分がどの程度の規模であったか知る由もないですが、
それにしても小さな待合室に、あのファサードを持った出入口とは
バランスを欠くような気がしないでもありません。
そうそう、今思えば不思議な建物でしたね。

  • 2013/09/27(金) 02:47:23 |
  • URL |
  • Wonder+Graphics #-
  • [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://northernrailways.blog.fc2.com/tb.php/480-db6742df
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad