"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

池田園-銚子口 (函館本線) 1971

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D52形式と云う大型機関車は、1937年に始まるアジア太平洋戦争戦時下の要求により実現したものである。動輪軸重の増加により牽引力の向上を狙った東海道・山陽本線向けの高出力機の構想は、1930年代末より持たれていたようなのだが、戦時の国策となった陸運転換がそれを一気に実現させたと云って良い。1943年に国鉄の浜松・鷹取工場にて量産先行車が製造され、以後当時の全車両製作会社を動員して1946年までに285両が量産された。
この重幹線用である機関車が、東海道/山陽本線筋以外で唯一長万部機関区に配置されたのは、京浜工業地帯の動力源であった北海道炭が戦時下の最重要物資とされたために他ならない。
それを陸上輸送に転換するに際し、噴火湾北岸区間に介在した10パーミルへのD51による1000t牽引を1200tとするには不可欠の機関車だったのである。函館-東室蘭間では重軌条化が進められ、D51は勿論、D52を以てしても補機を要する七飯-軍川(現大沼)-森間、石倉-野田生間については別線の勾配緩和線の建設も急遽進められた。(七飯-軍川間については未成に終わる)
この時期に何両のD52が長万部に配置されたものか資料は無いのだが、敗戦後の1945年度末時点での配置表によれば29両とあって、稲沢や吹田、姫路とほぼ同数を数える。けれど、資材と工数を削減した戦時設計と云われる工作と戦時下ゆえの補修部材の不足、応召による技量ある要員の不足などにより稼働状況は芳しくなかったと史料は伝えている。
その事情はD51とて同様であり、どの形式であれ当日に稼働可能な車両を仕業に充当したような状況であったろうから、D52の1200t運炭列車がどれほど実現したものかは分からない。逆に、D51に替えて軸重制限を超える函館山線の倶知安まで運転した記録もあるようだ。

これらは、敗戦による戦時体制の消滅とともに1950年度までに内地に転属して道内での運用を一旦は終了するのだが、1959年度以降の山陽本線の電化進展にともなう余剰により1960年から五稜郭機関区へ最終的に13両の転入が続くことになる。これもまた、軍川-東室蘭間に介在する10パーミル勾配に対するD51の下り900t、上り1000tの定数をそれぞれ1000tと1100tに引上げて運転に余裕を持たせ、併せて定数400tの渡島大野-軍川間下り補機の出力を向上する意図であった。1965年10月1日改正の運用表によれば、函館-東室蘭操車場間および上記補機に12仕業が組まれて、それは予備車を1両置くのみだから重用された様子が伺える。
けれど、この室蘭本線区間は小幌信号場前後に連続する長大隧道の存在から早くに無煙化が計画され、1969年4月から8月にかけてDD51の16両が函館機関区(当時に内燃車検修設備は五稜郭に未設置)と鷲別機関区に配置となり、同区間運用の多くが置替られ、1970年10月1日改正では9仕業となって、東室蘭操車場までの運転も僅か2往復に減じられた。しかも、この時点での稼働車は9両だったから、1ないし2仕業にはD51が入ることになっていた。重量貨物列車への優先充当も解除されて、旅客列車を牽く姿がみられるようになったのも、この改正と記憶する。

この後、1972年10月2日改正運用で6仕業への5両使用となって最後を迎えた。
駒ヶ岳を背景の列車は250列車、北旭川から五稜郭操車場への輸送力列車である。池田園から随分と歩いて、今の流山温泉駅付近からの撮影と思う。
当時の拙い技術に現像ムラを生じてしまっている。

=参考文献・史料=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
新日本鉄道史 : 川上幸義 鉄道図書刊行会 1968
鉄道ピクトリアル(No.137) : 鉄道図書刊行会 1962年10月号
青函船舶鉄道管理局機関車運用図表 : 同運転部車務課 (各改正版)

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f8 Nikon Y48 filter   Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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