"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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七飯 (函館本線) 2012

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函館本線の下り優等列車と貨物列車は、七飯から仁山付近に連続する20パーミル勾配を避けて別線を往く。通称-藤城線である。

1949年に公共企業体として発足した国鉄は、アジア太平洋戦争戦時下にて疲弊した設備の復旧に務め、1955年度までには戦前の輸送力を回復するに至り、増大の予測された輸送需要に対して1957年度から61年度を期間とする「第一次五カ年計画」を策定し、老朽施設の更新や幹線輸送力の増強を推進した。
1961年10月に実施の全国白紙ダイヤ改正がその一定の成果であり、道内に於いても特別急行列車を含む気動車による優等列車網の整備と到達時分の短縮がなされ、青函連絡船の大型船腹への更新を含む貨物輸送力の増強が行われた。けれど、これらは増発にかかわる搬器(車両)への投資とそれの運用効率向上によるものが中心であり、この計画期間中の地上設備増強は、室蘭本線の石炭輸送区間に単線にて残された敷生(現竹浦)-苫小牧間32.3キロの線増が進められ室蘭から三川までの複線化が成った程度であった。
対して、1961年度の道内貨物輸送量は、1956年度を100としたトンキロベースで129の伸びを示して、秋冬の繁忙期には駅頭に滞貨を生ずる状況や、旅客輸送も道内の特殊事情である夏季多客輸送や年末始のピーク輸送時の激しい混雑ともども、本改正にて緩和されるものでは無く、青函航路継送輸送力指標となる渡島大野-軍川(現大沼)間の列車回数も、これにて(単線の限界とされる80回を越える)100回に迫るものとなっていた。  

幹線の輸送力増強は道内に限らず全国的な課題でもあり、国鉄は1961年度を初年度とする「第二次五カ年計画」にてこれに対応し、戦時の陸運転換施策により突貫施工された僅かな区間で複線(砂原回り線含む)が稼働していたに過ぎない函館/室蘭本線の函館-本輪西間についても、これにて計画され、当面の隘路であった七飯-軍川間から着手されたのである。
同区間の線増は、渡島大野から峠下トンネルまでに連続して補機を要していた20パーミル片勾配の緩和と併せて下り列車専用線としての別線にて行われ、1966年9月30日に使用を開始した。七飯での平面交差を避けて左に分岐し、渡島大野への既設線と畑作地を長い高架橋で乗り越して藤城・峠下集落上方の斜面を新峠下トンネルに至る線形は、10パーミルの標準勾配を維持する経路選定による。

その1963年の着工から3年足らずの工期は、この別線を成す相当区間の構築物が戦時下および1956年までに完成していたからに他ならない。この区間の勾配緩和計画自体は戦前の早い時期から存在し、着工されていた事実がある。
それは石倉-野田追(現野田生)間の海岸段丘通過に介在していた15パーミル勾配を解消する新線と、大沼-森間で駒ヶ岳の裾野を越える20パーミルを回避する砂原回り線とを併せ、戦時下の陸運転換に応じた貨物列車の函館-岩見沢間上下でのD51ないしD52の1台運転による1200t牽引の実現ため計画されながら、突貫工事にて1945年までに使用を開始したこれら区間に対して、トンネル掘削に時間を要したものか、1200t列車が主には上りの石炭輸送であったゆえ優先順位の低かったものかは分からないが、工事途中にて敗戦を迎え開通に至らなかったのである。
(この項 七飯 (函館本線) 1971 に続く)

写真は、藤城線の核心である七飯高架橋を往く3063列車。
背後には北海道新幹線の高架橋が既に立ち上がっていて、それの目立たぬ夕刻を以て最善とする。

[Data] NikonD3s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f6.3 Non filter ISO640 W.B. 7700 Developed by CaptureOne5 Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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