"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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上越信号場-奥白滝 (石北本線) 1978

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オホーツク岸の湧別/網走を道央に連絡する道路は、1889年6月に着手し僅か60日ばかりで旭川湧別仮道路として一応の開通を見た。空知監獄の囚人37人を使役した突貫工事と云われているが、驚くべき短期間での開通は、そこに既存であったアイヌ民族による踏み分け道然の交易路を拡幅したものとも思える。この道路は野付牛(現北見)を経由する北見道路として翌1890年に本工事が着工され、1891年12月27日に完工と記録されている。
これは人馬の通行を前提としていたから北海道の中央山脈を湧別への最短距離となる北見峠で越えていた。

一方、1898年に旭川へ達した鉄道路線は、富良野へと南下し狩勝峠を越えて池田より北見、網走に至る網走本線が1912年12月5日に全通している。距離は延伸しても根室方面と中央山脈通過線を共用出来るのが、その事由と思われる。それの短縮も1921年10月5日に全通を果たした名寄線/湧別線経由が選ばれ、石狩と北見を隔てる山岳地帯の通過線は北海道鉄道敷設法(1896年法律第93号)第二条に規定の別表にすら記載されないものであった。
この峻険な峠に対して、当時の非力な機関車運転に求められる線形の実現に要する隧道延長とその工事の困難が予想されたゆえである。

1899年から建設の請願活動の行われたと云うその路線は、1920年に至ってようやく臨時第43帝国議会の協賛を得、1922年鉄道省告示第45号により北海道建設事務所の所管となり着工した。奥地での4000メートルを越える隧道掘削にも確信を得られる技術の発達も背景にあるだろう。同所による当初の現地調査では、その位置は北見峠と石北峠の双方が候補に挙げられていた。石北峠となれば武華原野への直行にて経由地から外れる白滝や遠軽地域が、これにどのように運動したものか、遠軽町百年史に記載はない。(読み漏らしかも知れぬ)
けれど、1923年9月1日に発生した大正関東地震からの復興予算に関連しての工事凍結に対して「かぼちゃ団体」と全国紙に報道されたような陳情団を長期中央に派遣し、強力な抵抗運動を展開したのはこの両地域の住民であった。

工事は白滝を境界として上川方を西工区、遠軽方を東工区と分け、石北トンネルから白滝に至る区間は西3、西4と西5工区に当たる。隧道内の最高点を新旭川起点67K473Mの施行基面高644M10に置いて、これより白滝方を15.2パーミルの下り込みとして出口の起点69K669M地点の施行基面高を611Mまで下げるのだが、そこから奥白滝構内直前の起点73K521Mまでの高低差100メートル余りには急峻な地形が続き、湧別川の本支流の横断に多数の架橋を要する難工事と記録にある。
この区間の路盤開削は、まずは石北隧道工事への資材運搬路として行われ、それには遠軽の業者が導入したフォード社製の貨物自動車が使われた。余談ながら、これが白滝村に現れた最初の自動車と村史にある。

西4と西5工区であったこの区間は、確かに山深くて狭い谷に撮影の足場は見つからなかった。
列車は、522列車。この頃、石北本線を通す唯一の普通列車だった。(下りは北見で521-1521と列番が変わる)

=参考文献=
北海道鉄道百年史(全三巻) : 国鉄北海道総局 1976-1981
鉄道百年略史 : 鉄道図書刊行会 1972
北海道の鉄道 : 守田久盛/坂本真一 吉井書店 1992
北海道道路史 3 路線史編 : 北海道道路史調査会編 1989
遠軽町百年史 : 遠軽町編 1998
白滝村史 : 白滝村編 1971

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.


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  • 2013/08/10(土) 15:07:06 |
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