"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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東室蘭 (室蘭本線) 1996

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東室蘭操車場は、アジア太平洋戦争末期の1942年に着工して同年内に一部の使用を開始し、43年に本線抱き込み型の平面操車施設として全面使用、44年の東室蘭既設構内の改良と合わせて完工し、その一日の操車規模は1300車であった。これは、対本州間の物資輸送を陸運転換の措置により青函間に集中するに際して、それまで既存の東室蘭駅構内設備で行っていた操車作業が限界に達すると予測され、且つ拡張の余地の無いことから、それを岩見沢方の鷲別地区に求めたものである。
戦後に急増する輸送需要に対しては、1962年には作業効率の向上を図るべく、上下別にて櫛形配線となっていた仕訳線の後方も結び、合わせて構内を拡張する改良がなされ、操車能力は一日あたり2300車となった。
ここでの貨物扱い設備の併設されることは無く、それは引続き東室蘭既存構内東側の施設が使われた。依って建設規程からは操車場に違いないのだが、国鉄の部内規程である「日本国有鉄道組織規程」では独立した現業機関とは見なされず、東室蘭駅の一部であった。駅構内の拡張と位置づけられたものである。これは、五稜郭に岩見沢も同様で、現業機関としての操車場は新鶴見や吹田、高崎等に限られていたのである。同じく部内規則の「貨車輸送手続き」では輸送上地区ヤード(地区指定組成駅)に指定されていた。これも道内での基幹ヤード(本社指定組成駅)は五稜郭のみである。
それでも、197平方キロメートルの用地を有し、構内延長は、1.9キロ先に1901年から存在した鷲別駅の乗降場を上下分離させるに至った堂々足る操車場であった。運転上は東室蘭と区別して運行図表にも東室蘭操車場と記されていたのは周知のとおりである。
ここには開設間もなくに貨車検修設備も置かれ、それは1950年2月10日付にて東室蘭貨車区として独立した現業機関となっていた。

ヤード集結輸送の全廃された1984年2月1日改正を以て上下の仕訳線群の使用を停止し、貨物列車着発と鷲別機関区への出入区、苗穂工場輪西職場(現鷲別機関区輪西派出)との入出場貨車の操配と本輪西発着列車の中継に関わる機能のみが残された。
東室蘭貨車区は85年3月14日付で苫小牧客貨車区東室蘭支区に格下げの後、86年11月1日付で書類上廃止され、施設は新設の鷲別機関区東室蘭派出として引き継がれたものの、88年度内に作業を輪西派出に統合して撤去に至った。
社会的情勢により永らく放置されていた旧構内では、93年初めより国鉄精算事業団による大規模基盤整備事業が始まり、96年10月9日を以て下り仕訳線群跡に東室蘭駅東口貨物施設を移転して着発線6線と仕訳線10線を持つコンテナ扱施設が稼働した。コンテナホーム北側に接した着発線の1線は直接荷役が可能である。これに先立っては、東室蘭駅の配線は数次に渡って引き直され、最終的に抱込み型であった上り本線の下り本線側への移設が行われた。
日本貨物鉄道の現業部所(後に室蘭総合鉄道部)に営業フロントも同所に移転して「東室蘭駅(貨物)」を名乗るが、独立の停車場ではなく、北海道旅客鉄道に所属する東室蘭駅の一部である。運転上は引続き東室蘭操車場とされている。

写真は、操車場構内南側の上り本線を旅客構内へ進入する、夕暮れの8002列車<トワイライトエクスプレス>。
それの下り本線側への移設数ヶ月前の撮影である。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8 1/125sec.@f4-5.6 LBA2 filter PKL Edit by CaptureOne5 on Mac.
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