"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

安別仮乗降場 (天北線) 1985

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戦後の北海道の鉄道景観に特異性を与えた存在に「仮乗降場」がある。その中核を成すのは旭川鉄道管理局管内に集中した一群であった。それは偶然では無く、そこに第二代局長として赴任した斉藤治平の発案、尽力によるものである。

1958年発刊の国鉄による鉄道エンサイクロペディア『鉄道辞典』は、仮乗降場を「季節的に旅客の集中する場合等旅客乗降の利便を図るため駅以外の場所に設備した乗降場を云う」と記述している。「駅以外の場所に設備した乗降場」とは奇妙な表現だが、「仮駅との異なるところは、仮乗降場には営業キロ程が設けられず」と続いて、ここでの「駅」とは運輸営業上のそれであり、仮駅と区別の必要からの用語と知れる。
同記述はさらに、それの「設置は本社で行っており、その開設期間や旅客取扱区間等については鉄道管理局長が定める」としながらも、最後段で「現在通勤・通学の利便を図るため、鉄道管理局長かぎり臨時に列車を停車させ旅客の取扱を行っている場所があり、これも仮乗降場または臨時乗降場と通称する」と書く。
敢えての言及は、従来手続きと異なる「仮乗降場」がこの頃までに相当数に存在していたことを示し、それが旭川鉄道管理局による仮乗降場群なのである。「と通称する」の件は、それの正式呼称が存在しないと読め、本社として扱いに苦慮していたことを物語る。

斉藤についての多くは知り得ない。本社からの赴任は1954年半ば頃と思われ、1953年に交通経済社から『国鉄自動車経営論』の著作があり、地域輸送事情に通じていた人物と推定される。
赴任後の管内巡視から、冬期には馬橇すら通行に難儀するほどの僻地の気象条件や交通事情に鑑みて、各所への極めて簡素な乗降施設の設置を発案する。想像の域を出ないのだが、それは斉藤の専門分野と思われる旅客自動車の停留場の発想であろう。且つ簡易停車場としても時間を要する手続きを避けて設置を急ぎ、自身の責任において局独自の施策としてこれを実行したのである。これも推定だが、設廃の局長権限である災害時や工事施工時の臨時乗降場設置手続きを拡大解釈したのではなかろうか。
赴任翌年の1955年に8線区へ39場、1956年には10線区31場を開設し、1960年までに管内12線区へ97場を設置している。
勿論この施策には、この頃までに道内の多くのルーラル線区に運転を開始していた内燃動車の存在が背景にあり、当時の旭川局では、これら新設乗降場を単に「気動車駅」と呼称していた。これは国鉄部内で通常に使われていた用語である。
斉藤は合わせて液体式気動車の管内への導入も積極的に推進し、富良野線の1958年1月25日改正における客貨分離のように本社施策として実現させた例もあり、この際に設けた同線の仮乗降場はまもなくに駅へと昇格している。

この旭川局管内の事例を以て、現在に仮乗降場イコール本社非承認案件、即ち鉄道公報に達の記載されず管理局報での通達により設置とする情報が流布されるが、些か疑問である。中には駅設置基準の推定利用者数に交通不便地を考慮する緩和条項へ照らしても本社の難色を示した案件や、斉藤の手続きを無視した方針への反発も在っただろうが、最終的には承認を得たと見るべきであろう。前記富良野線の例ばかりでなく、早い時期に駅への昇格を果たした事例も存在するからである。乗降場が既存で局による通達も出されており、遡った達を省略する内規が定められたものではないだろうか。
同時期には推定利用者数に大差の無いと思われる案件が、広尾線依田や士幌線武儀のように正規の手続きを踏んで正駅として開業した事例も存在する。
(元沢木仮乗降場-栄丘 (興浜南線) 1978 に続く- 文中敬称を略した)

天北線には仮乗降場の連続する区間が2区間存在していた。ここは、飛行場前が先行して1955年12月2日に、安別は翌56年11月19日改正を以て開設されている。
周囲は見渡す限りの酪農地帯であるが、戦争末期には飛行場前の名のとおり、この周辺に陸軍浅茅野第一飛行場の滑走路が完成していた。牧草地は敗戦にて使われることのなかったそれの転用である。その建設には連行された朝鮮人らの強制労働の歴史が在る。

ロケハンに疲れ安別仮乗降の乗降台で一休みしていると、空冷式単気筒3馬力機関の甲高いエンジン音とともに軌道自動自転車が爽快に通過して行った。閑散線区の線路巡視なら、それに限るだろう。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/500sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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コメント

こんにちは

この 電動自転車のようなモノ
白滝でも春先ずいぶん見かけました
軽快で・・・便利なものですね
カラダの大きな作業員さんたちがぎゅうぎゅうになって線路上をゆくのを見てたらつい笑ってしまいました 

リンクされている、強制労働の資料、興味深く拝見しました
天北の朝鮮からの強制労働者の様子、当時反場に従事してたらしいアイヌの女性の手記にも、労働者の姿は、逃げ出せるようなそんなようにも見えず 魂なく座りこんでいた様子が書かれてありました

その資料に鴻ノ舞鉱山のことについても書いてあったのを読みましたが
上藻別駅逓保存会の方も このことは詳しく語りません
朝鮮人労働者がなくなった話を聞きましたが 虐待のようなものはなかった、住友さんには恩があり、むしろ朝鮮人労働者も日本人労働者も分け隔てなく・・・と言うような口ぶりでした

鴻ノ舞も天北も今はなくて 線路や鉱山が消えるとそれに絡んだ歴史も消えて(消して)しまうようで 
とくに何もできないんですが やっぱりつらい、胸が痛い 勝手なはがゆさだけ 感じてます

  • 2013/06/07(金) 10:35:54 |
  • URL |
  • Jam #-
  • [ 編集 ]

立身出世

こんばんは。

記憶が正しければ、くだんの旭川局長は旭川地方の出身、
北大出の国鉄官僚と聞いたような気がします。

当時の国鉄キャリアは定年までに最低でもどこかの
管理局長に就任、がお約束だったそうですが、
故郷に錦を飾らせるような人事もあったのかと思います。
官僚的な功名心もあったのでしょうが、
幼い頃の想いを果たす如く大時代的な立身出世物語も感じます。

昭和30年代の名寄本線の乗降場ホームを、
学ランだのセーラー服だのが埋めた写真も見ていますので、
この当時の進学率向上にも寄与した事は確かなのでしょうね。

  • 2013/06/07(金) 22:42:09 |
  • URL |
  • 風太郎 #ORZvdv76
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

こんばんは。
あの軌道自動自転車とは本来二人乗りだそうです。(国鉄の資料にそう書かれています)
道路交通ではありませんから、三人乗ったって違反ではないですが、そりゃあ腰掛はキツイですよね。
それでも夏なら快適で楽しそうです。
冬はお休みかと云えば、さにあらず。その昔、常紋で前に窓ガラス入りの遮蔽板を
後に幌を取付けた姿を目撃しました。
実際に走行していたのですが、寒さよりもその3馬力エンジンで良く25パーミルを登って来た(来れた)と
感心したものでした。

岩手県の盛岡市。近年「盛岡冷麺」がつとに有名です。
そこには、それが街起こしに使われる遥か以前から小規模な朝鮮人街が在ったのです。
地元の人も余り近づかない一角だったのですが、
冷麺にキムチにチャンヂャが美味しく花輪線の撮影後などに立ち寄っていたものでした。
後年に、盛岡グルメなどともてはやされるなぞ信じられない時代です。
ここに何故コリアンタウンが存在するか、と云いますと、
それは八幡平山麓の松尾鉱山に強制連行され、戦後解放されても帰れなかった人々が住みついたためでした。
松尾の廃墟記事にも、冷麺のグルメ記事にも触れられることのない歴史です。
猿払も藻別も、生き残れた人達は半島まで無事に帰れたのでしょうか。

  • 2013/06/08(土) 00:52:43 |
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  • Wonder+Graphics #-
  • [ 編集 ]

Re: 立身出世

こんばんは。

そうですか。とすれば合点が往きます。
続編に書くつもりですが、彼の当初の発案は板張りの乗降台どころでは無く
気動車の客扉を合わせて停車出来れば十分な程の、それこそステップないしタラップ
のようなものだったようです。バス停留所の発想ですね。
乗降場ですらなく、規程上駅間で停車してはならない列車を止めれさえすれば良かった訳で、
本社とのやり取りのポイントはそれだったと思われます。
寧ろ、乗降台(ホーム類似の)の設備は本社の指導ではないのかと。

確かに寄宿せずに済んだと云う話を、誰ぞやの著作に読んだ覚えがあります。

  • 2013/06/08(土) 01:12:00 |
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