"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

倶知安 (函館本線) 1986

kutchan_10-Edit.jpg

アイヌ民族によりMakkari-Nupuriと呼ばれたこの山は、1868年に和名を後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けられた。これを難読として地元倶知安町が、国土地理院に羊蹄山(ようていざん)への変更を申し入れ、これが受け入れられて以後にこの名称が定着することになった。そう古い話では無い。1960年代末のことである。
後方羊蹄山の呼称は、659年(斎明天皇5年)の阿倍比羅夫による蝦夷討伐を記した「肉入籠(ししりこ)に至る。時に、問菟(とひう)の蝦夷膽鹿嶋(えみしいかしま)、菟穂名(うほな)、二人進みて曰く、後方羊蹄(しりへし)を以て政所(まつりごとどころ)とすべし、といふ」との日本書紀の記述によると云う。後方を「しりへ」と、羊蹄を「し」と読む。
ただし、肉入籠が北海道島であり、後方羊蹄が現在の後志地域である確証はないらしい。
羊蹄山の名には、近代ご都合主義の胡散臭さがあって好みでは無い。個人的には狩太でお会いした老人に倣って、真狩山(まっかりやま)と呼んでいる。アイヌ語名のそれである。
森からの噴火湾岸の車窓に遥かに望んだこの山が、特急で2時間と少し揺られれば忽然と仰ぎ見て立ち現れる。いつも出来過ぎた演出と思っていたのだった。しかも、倶知安峠を越えるまで、と言うのも念が入っていた。

写真は、倶知安北方の防雪林区間での121列車、札幌行き。
函館運転所に23両の配置の在ったオハ50系列51形客車は、86年3月3日改正における江差線1723・1722列車と函館/室蘭本線123-243・240-126列車の気動車化により11両が捻出され、これにて函館-札幌間121・128列車と函館-小樽間125・124列車の旧客運用を置替えていた。財源となった気動車は、相次いだ特定地方交通線の廃止によるものである。
この赤い客車は随分と前からここに進出していたけれど、函館からの直通列車への運用は、これが最初の例であった。必然的に2往復とも青函航送の荷物車を組成して、この頃にはそれらもマニ50とマニ44に統一されていたから50系列での編成美を見せてくれたのである。
この121列車は、青函1便で送られた[北東航201]のマニ44と[名航1]のマニ50を組成した6両が所定であった。客扱いは札幌までだが、スジは荷扱の苗穂まで引かれていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://northernrailways.blog.fc2.com/tb.php/386-997e0348
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。