"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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沼ノ端-遠浅 (室蘭本線) 1966

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初めて一眼レフカメラを手にした1966年には、師匠である親父の手ほどきを受けながら見よう見まねで、フィルムの現像処理に暗室でのプリント作業も始めていた。後に知るところでは、当時に現像ラボも存在していたようなのだが、自家処理が一般的な時代である。
その作業は、写真店や薬局にてフィルムなり印画紙の製造元による処方に指定の薬品を買い集めることから始まる。コダック社のフィルム用微粒子現像液D-76処方ならば、主薬としてのメトールにハイドロキノン、それに無水亜硫酸ソーダと硼砂である。停止液には氷酢酸、硬膜定着液にはハイポに硼酸/明礬も必要とした。
これらをハトロン紙を載せた天秤秤に掛けて、分銅を置きながら正確に量り、液温を保ちながら処方どおりの順番で溶解して薬液を作るのは、面倒でも楽しい作業ではあった。

フィルムをパターソンタンクのリールに巻き取るのは、夜に灯りを消した部屋の押し入れである。現像液の注入に泡取り、そして連続撹拌から迅速な排出と停止液の迅速注入、さらに定着へと続く処理工程は、純粋な化学反応であるから液温と時間を正確に管理さえすれば失敗のしようも無く思えたのだが、現実には撹拌時のパーフォレイションによる流速の違いでムラを生じさせたり、液温管理も当時の夏には難しく粒子を荒らしたりの失敗を繰返したものである。
ただ、水洗は確実にせよ、との言いつけを守ったせいか、この初期の自家処理フィルムでも残留ハイポによる変色もなく、40余年を経た現在でも健全なネガである。

プリントの暗室も多くの家庭処理がそうだったように、これも押し入れである。ここでは決して潤沢に揃っていた訳では無い印画紙の号数と得たいコントラストでの露光時間をノウハウとして得るまでには、随分と試行錯誤したものである。それでも、現像液のバットで印画紙に絵の浮かぶ瞬間の緊張と快感は他では得られないだろう。写真にのめり込んだ理由のひとつでは在る。
それから30年間、薬液は既製薬に代わり、タンクもマスコタンクに移行しながらも基本的には同じ手順の作業を続け、ノウハウにデータも豊富に持っていたけれど、撤退して15年にもなる。幸いにして銀塩写真は今も存在して、当時の道具/用具に機材も揃っているから再開したい気もするのだけれど、当時に苦労したプリント時の処理がデータ上ならばいとも簡単に実現してしまうのを知れば、心中は複雑である。

写真は、勇払原野を北上する227列車岩見沢行き。
千歳線の下り線(上り列車運転線)が室蘭本線と交差する、当時に定番の位置からの画角である。鉄道誌の蒸機記事には必ず取り上げられ、この初めての訪問でも千歳線の植苗に下車して、まずは目指したのがここである。前にも書いたけれど →植苗 (千歳線) 1969、そこいら中「ヘビ」の記憶が鮮明に残っている。線路に沿う小道を往けば、そこを横切る姿を遠目に何度も目撃し、線路際を歩けば茶色いのや緑色のそれが蜷局を巻いて待ち構える始末なのである。恐ろしいところに降りてしまったものだ、と怯えつつ、彼らを回避しながら辿り着くポイントであった。
今は湿原乾燥化の進行にともない、そこにはハンノキやらミズナラ、カシワなどの樹木が生育して様相の一変しているのだが、この頃なら一面のヨシ群落の広がり千歳線上り線の築堤や、その向こうにウトナイ湖の湖面も望め、原野/湿原の只中の直線区間を飛ばして来るC57の旅客列車を楽しめた。特に下り列車は、遠浅手前にある緩い勾配に備えて力行するのが魅力であった。黒煙にドレーンは機関士のサーヴィスである。

このネガの現像は液温/時間管理ともに失敗して粒子ばかりか鮮鋭度も失っている。敢えてデータでも補正していない。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor135mm/F2.8 1/500sec@f4 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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