"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

倶知安機関区 (函館本線) 1973

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1964年度に単年度赤字に転落して以降悪化する国鉄財政に対し、政府/与党は国鉄財政再建推進会議に対して再建策を諮問、その68年11月1日の運輸大臣への答申を受けて、69年5月に日本国有鉄道財政再建促進特別措置法を成立させた。これにより国鉄当局は財政再建基本計画を策定し、70年2月19日に運輸大臣承認受けて1969年度を初年度とする運用を開始した。
時に内閣を組織していたのは、かつて国鉄幹部であった佐藤栄作である。佐藤は69年5月26日付で退任した国鉄総裁石田礼助の後任に、国鉄生え抜きの官僚である磯崎叡を送込んでおり、その指揮の下に開始されたのが、かの悪名高き生産性向上運動、国鉄における通称「マル生運動」なのである。
財政再建基本計画に基づく生産性向上とは聞こえは良いが、それの実体は前記の再建推進会議答申に含まれていた国鉄職員16万人の合理化を推進する手段として策定/発動されたものであった。必然的に国労/動労など組合側との鋭い対峙の予想されたこの施策は、当局側においてもこれに異を唱える幹部が磯崎総裁により事前に更迭され、推進派が主導権を握り半ば強引に推進されて往くことになる。
そこには、70年の安保改定を迎える佐藤政権が、国鉄の財政再建を名目とした合理化にて、労働側の弱体化を意図していた構図が透けて見える。この「マル生運動」は当初より明確な政治的背景を持っていたと云わざるを得ない。

この運動の経過と顛末をここに詳述する余裕はないのだけれど、極めて政治的であったが故の、労働者ばかりでなく家族をも巻き込んでの中間管理職による執拗で露骨な組合脱退勧誘、脱退者には昇進/昇級が約束され、管理職には賞金まで用意されたと云うそれは、相次ぐ職場での乱闘騒ぎに幾人もの自殺者までをも出した末の71年10月に至って、公労委が国労申し立ての不当労働行為救済申請を認定して国鉄当局に謝罪を命令し、当局側から組合に対して10月12日に「不当労働行為の根絶」が、29日に「生産性教育の中止」が言明されたものの、国鉄労使間に深い不信感と亀裂を産んで、その後の永い合理化反対闘争を規定することとなった。順法闘争で対抗する組合と当局との対立は、政治上の代理戦争の様相も帯びて72年の春闘を激化させ、73年/74年と続く交通ゼネストを経て、公労協によるスト権奪還闘争へと先鋭化し、75年の十日間に渡って国鉄を麻痺させた「スト権奪還スト」への導火線ともなるのである。
そればかりでなく、戦後復活した保守支配体制による民衆管理の一面であるこの動きは、管理職にも疲弊と厭職をもたらして70年代国鉄のモラル低下を招き、それを逆手に取った政権側がその後の分割・民営化を方向付けた点においても、政治に絡めとられた国鉄を象徴するものであった。さらには、それを越えて現在に至るまでの労働運動全般に影を落としていることも忘れるべきでない。

倶知安機関区は、胆振線/岩内線用9600と本線用D51に気動車の配置があり、乗務員運用は、函館線の長万部-小樽築港間に胆振線を介して室蘭線の室蘭にまで及ぶ山線の中核区所であった。ここでは、合理化の一環として無煙化とともにそれらの長万部と小樽築港への統合/集約が計画され、それは機関区の全廃を意味したから反対闘争は激烈であった。
長引く混乱を受けての磯崎総裁の引責辞任直後となる73年9月23日のこの日、機関区では数人の全動労組合員が集会を持ちサボタージュに入っていた。その最中にもかかわらず、遠来の撮影者には火室に石炭を投込んで煙の演出をしてくれるのだった。管理職による妨害も無く、彼らの表情は穏やかと記憶する。

※文中のデータは『国鉄労働組合40年史』労働旬報社 1986 による。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor35mm/F2 1/250sec@f5.6 Non filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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