"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

釧路 (根室本線) 1977

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2011年度の日本酒(以下、単に酒と記す)消費量は、ほぼ四半世紀振りに前年度を上回ったと聞く。
それは、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれによる津波にて沿岸部のいくつかの酒造場が被災し、これに呼応した東北地方の蔵元の提唱をきっかけとした、日本名門酒会による「一合壱円プロジェクト」や取り次ぎ卸店/酒販店を中心に販売を通じた復興支援のなされた東北各県の酒が売上を伸ばした結果と言うものの、これにて現代の酒に初めて接した人々が存在し、やがて彼らは全国各地の地酒へと手を伸ばすに違いなく、取り敢えずは喜ばしいと言うべきであろう。

酒の消費量は、戦後に急激な伸びを示し1973年度にピークに達するものの、その後はバブル経済ただ中の1988年度に一度だけ上昇に転じたことがある他は、一貫して漸減傾向にあったのである。
これについては、様々な要因分析がなされ、主には生活様式の変化による低アルコール志向、健康志向によるワイン・焼酎への流出などが要因に上げられているのだが、それへの嗜好が世代間に伝えられていないゆえと言う気がしてならない。

それもそのはずで、戦後にその消費を押し上げた所謂団塊世代の呑んだ酒は決して美味しくは無かったのである。
当時の灘/伏見の大手蔵を中心とした酒造業界は、戦時中に戦費調達から酒税の増収目的で認められたアルコール添加や副原料を使用した増譲酒を、終戦直後には原料米不足を理由に、そしてその後は利益率の高さから長く造り続けたのだった。それは酒とは言えぬ紛い物ゆえ、やがて画一化した味は飽きられ、次の世代へと伝わらぬのも当然に思える。つまりは、自分で自分の首を絞めたことになる。
もちろん、米と米麹による本来の酒に拘り続けた心ある蔵元も在り、それに一部の流通側の努力が加わって70年代半ばの吟醸酒の再発見へ、そしてその後の地酒ブームへと繋がる。けれど、時既に遅しと言うべきか、酒とは不味いものとの定説が広まったのも、また70年代なのであった。
残念なことに、増譲酒は普通酒の名称にて未だに製造されている。大手蔵はその規模ゆえに、一部の中小蔵は低迷する消費動向から普通酒による収益構造より脱却出来ぬのである。
一方で地方の中小蔵には生産全量の純米化を達成した蔵も出現し、それを指向して途上にあるものも多い。戦後半世紀余りを経て、ようやく本来の造り酒屋に回帰しつつあると言って良い。その酒は、もちろん美味い。

私事にて恐縮だが、1969年に亡くなった母方の祖父は毎晩に晩酌を楽しむ酒呑みであった。祖父が戦後のそれしかない増譲酒をどのように思って呑んでいたものか、今となっては知る由もないけれど、同じく酒呑みとしては可哀想でならない。戦前の本来の酒の味を知っていたはずなだけに、である。

その蔵元=酒造場も1955年度の4000場あまりに対して近年では2000場を切るまでになっている。これは酒造免許のデータゆえ、それを保有していても休場中であったり自家醸造を止めてしまった蔵も含まれる。実際の稼働蔵は1000場に迫るのではなかろうか。ここ20年程は毎年50近い蔵元の廃業/免許返上が続いている。
2011酒造年度で北海道内で稼働している酒造場は13蔵を数えるのみである。
ここ、釧路には1919年創業になる福司酒造がある。酒銘は勿論「福司(ふくつかさ)」である。
年間の製造高1900石、おおよそ一升瓶で190000本あまりの出荷はそれなりの規模であろうか。それでも販売は地元向けが大半を占め、正しい地酒屋である。首都圏で見かけることは無く、現地に向わなければ呑めない。

写真は、釧路川橋梁(178M)上の混444列車である。この列車については度々書いており、付け加えることは無い。
この頃の旧釧路川左岸には漁港施設があり、何隻もの漁船が係留されて早朝には活気に満ちていた。その裏手には釧路臨港鉄道の軌道も健在だったのだが、既に列車運行はなかったと記憶する。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on MAc.
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