"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

厚岸-糸魚沢 (根室本線) 1976

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運輸省の公表していた運輸経済統計要覧によれば、1965年度の日本国内の貨物輸送量はトンキロベースで1863億トンキロであり、これが1980年度には約2.4倍の4391億トンキロに達している。
60年代の高度成長に終わりを告げた、71年の米国によるブレトンウッズ体制の放棄(俗に言うニクソンショック)、73年の中東戦争に端を発する第一次オイルショックを経て、なおも物流市場は成長を続けていたのである。
ところが、国鉄貨物のそれは、65年度の564億トンキロが80年度の271億トンキロと半減し、そのシェアも30%から僅か8%にまで低下したのだった。
そのシェアを奪ったものは言うまでもなく、高速道路は勿論のこと、70年代半ばまでには地方国道へも整備と改良の及んだ道路交通を背景にした自動車運送なのだが、機動性/迅速性を有し、梱包等も簡易で済むなどの市場の要求に即した優位性に加えて、同時期に頻発した国鉄のストライキがそれへの転移を促した側面も見逃せない。
さらには、74年から年中行事のように繰り返された大幅な運賃改定がとどめを刺したとしても過言でなく、以後国鉄は、75年度の2527駅(内127駅が貨物駅)を500駅以下とする貨物扱駅の統廃合、貨物列車の削減、不採算分野からの撤退などの縮小均衡の追求に追い込まれ、物流市場の変化にことごとく追随出来ずに、遂には84年2月改正にて車扱貨物による全国ネットワークからの撤退を余儀なくされるのである。

これを線路端から見ていると、70年前後でも予定臨設定であった盲腸線の貨物は、その後半には廃止され、それを逃れたルーラル線区でも牽くべき財源は斬減して、まもなくダイヤは引かれていても運休や片道の財源の無く機関車の単行運転となることが日常となって行った。
ここ、根室本線末端区間の貨物列車も75年3月の改正で1往復に削減され、80年頃には列車を仕立てるに財源の少なければ、これを運休して混合441・444列車にて輸送するケースを生じていた。ほとんど貨車の連結のなくなっていた同列車に、それの復活することとなった訳である。それはコンテナ車-1両ないし2両だったと記憶する。

写真は、別寒辺牛湿原での1491列車。
釧路操車場-根室間の設定で、この区間での貨物扱駅は70年度の13駅から浜厚岸(厚岸は旅客駅)に根室の2駅にまで減っていた。それでも、まだそれなりの財源を持って走っていた頃である。編成後部に見えるのが、荷主は知らないけれど週数回の定型輸送だったコンテナ車で、後年に441・444列車に連結されることもあったのが、これである。
84年2月の改正で、その混合列車も貨物列車も消滅した。

国道44号線脇の、この丘陵からは別寒辺牛湿原とそれに続く厚岸湖を遥かに見通すことが出来た。数在る厚岸周辺の蒸機時代からの定番ポイントのひとつである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f11 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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コメント

こんにちは。

別寒辺牛湿原、先日行ったばかりなので懐かしく拝見しました。
私が登ったのはもう少し糸魚沢寄りと思いますが、この風景は40年近く変わっていないようですね。いや、基本的には数千年変わっていないのかもしれません。

走る車両は変わっても、こういった特異な鉄道情景をまだ楽しめるのは幸せと考えなければ、と思います。

  • 2012/06/02(土) 10:05:41 |
  • URL |
  • 風太郎 #ORZvdv76
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

ここの土地を利用しようと思ったら、その改良には国家プロジェクト並みの投資が必要ですよね。
民間ではありえないし、投資回収の目処もたたない。
この先、100年でも200年でも自然が変えて行くそのままでしょう。その摂理で湿原が乾燥化するのは1000年後??
別寒辺牛川は釧路川ほどの大河ではないので、釧路湿原より長持ちするはず。

  • 2012/06/03(日) 13:33:05 |
  • URL |
  • wondergraphics #-
  • [ 編集 ]

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