"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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倶知安 (函館本線) 1983

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テオドール・エドラー・フォン・レルヒ [Theodor Edler von Lerch]
本邦ではレルヒ少佐として知られる20世紀初頭のオーストリア-ハンガリー帝国の軍人である。それは、現在の新潟県上越市高田で日本に始めてスキーを伝えた人物として記録されている。上越市には縁の人物と言って良い。そこには、その当時に命名された『スキー正宗』なる酒も存在しているくらいである。(1916年創業上越市西城町の武蔵野酒造が醸する)
ところが、この名前は倶知安でもしばしば目した覚えがある。
調べてみると、彼は決してスキー教師として来日した訳ではなく、逆に日本帝国陸軍の視察と研究に派遣された将校であった。当時、シベリア出兵を想定していた帝国陸軍は、彼の持つ「スキー」なる雪中移動技術に着目し、これの伝授を依頼したものという。その最初の教授先が高田の歩兵第58連隊であったゆえに、ここが日本スキー発祥の地とされているのである。
彼は、旭川の第七師団にも教授に訪れており、スキー発祥はその順番の結果に過ぎないものだろう。
さて、倶知安との縁だけれど、それは旭川第七師団への最終訓練としてスキーによる羊蹄山登山に際しての訪問だけである。特に縁を強調する程でもないのが真相だ。ただし、その節に現在の旭が丘公園(スキー場)のある斜面にて市民向けにスキー実技のデモンストレイションを行ったのは事実のようである。

その旭が丘スキー場は、倶知安の駅乗降場から夏場ならば草の斜面として至近に見える。
83年の夏の渡道の際、ふと眺めたそこからの羊蹄山を背景とした俯瞰撮影を思い立ち、その草原を登った。
しかしながら、最大斜度30度との斜面もスキー滑降ならではで、思いのほか高度感のないものであった。
仕方なく登坂を始めたのが、そこに在ったジャンプ台である。これは、1970年にここで開催の第25回国体スキー競技会に応じて建造されたもので、十数年を経た滑走路部分の板材はあちらこちらがが朽ち落ち、その高さもあって恐怖感を覚えるに十分だった。

写真は、列車の小さくなってしまうけれど、その滑走始点から俯瞰した第一苫土散川橋梁(河川名は倶登山川)を渡り倶知安構内へと入る13D<北海3号>である。
この列車は、81年10月1日改正で、急行<宗谷>の函館-札幌間を分離の上特急に格上げしたもので函館運転所の183系-10両編成での運転であった。
急行時代に比較して大幅な輸送力増強になってしまうのだが、札幌-釧路間の5005・5004D<おおぞら5・4号>と共通運用が組まれたためで、特に下りの場合は札幌駅に在姿のままで13Dから5005Dに運用が繋がっていた。
余談だけれど、同一編成を運用する函館発着の3-5003D・5002-2D<おおぞら3・2号>とは、札幌で編成が相対することになり、石勝/根室線内では逆編成での運転であった。
函館山線区間での10両組成は長大編成で、ニセコ、余市では後部2から3両がホームにかからなかった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f11 FujiSC44filter Tri-X(ISO320)

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