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"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

音別 (根室本線) 1977

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北の育ちなものだから、上京して写真学校の不真面目な学生だった頃、近所の定食屋の惣菜棚に並べられた小鉢に見た蕗の水煮には驚いた覚えがある。それの、まるで三ツ葉の茎かと疑う「か細さ」に、である。その頃には、蕗が栽培作物とも知らず、山野に自生を刈り取るものとばかり思っていたことも手伝い、記憶のそれは湿地や水流の縁に低くても1メートルの丈に密生して、家での母親の調理も太い茎のぶつ切りに違いなかった。定食屋での一件は、以前此処に書いた「鱧」と並ぶ、はてなマーク事件である。→ 
東室蘭 (室蘭本線) 1995
しかも、彼方が本種で此方は亜種とは、さらに後になって知るのだった。
奥羽地域から北海道内に自生する亜種は、1メートルは疎か2メートルにも達する巨大蕗であり、「秋田の国では雨が降っても唐傘などいらぬ」と歌われる秋田音頭のプロモーション効果なのか、一般に「秋田蕗」と呼ばれるようである。勿論、同様の蕗は道内至る所に見られ、流石に秋田蕗とする訳にも往かず、今では蝦夷蕗、大蕗が通称のようだが、札幌在住当時は、単に「蕗」と記憶し、それしか無いのだから、確かに「蕗」は「蕗」である。

道内至る所に自生する蕗だが、音別町はその栽培地と言う。音別駅前から道道241号線、同500号線と内陸へ15キロばかり北上した霧里(むり)地区が中心と聞く。
1991年頃と云うから、ごく近年である。時の音別町振興公社が蕗の食品加工に際して大量に廃棄される蕗皮に着目して、これで紙を漉こうと考えたのだった。特産品の創成を目指してのことだが、今や百均ショップでも紙すき道具を売っている時勢だから、当時とて安易な発想の範疇だろう。
ともかく、この事業に着手すれば、蕗の繊維が独特の緑模様を見せる和紙が産み出され、これをフキに当て字した「富貴紙(ふきがみ)」と名付けたのである。しかしながら、その生産量からでもあろうが販路も限られ、小さな自治体の外郭団体ゆえ、大したプロモーションも為されぬうちに、折からの「平成の大合併」である。音別町の釧路市への吸収には振興公社も解散して「富貴紙」も沙汰止みとなってしまった。
これが2016年度に至ってのこと、全国自治体総参加の様相を呈する「地域起こし」とやらに、釧路市も音別地区への配慮にはネタ不足で在ったものか、再興を図るべくNPOを通じて都市居住者から移住を伴っての継承者公募に乗り出していた。
これも安易に過ぎると云うものだろう。住居は提供されるとは云え、たかだか十数万円の月額報酬で都市在住者に移住を迫る施策とは正気では無い。生産の地場産業を興すのであれば、商業的に成り立ってこそであるから、寧ろその分野に通じた都市在住者をそのままに雇用して、消費地側でセールスプロモーションに就かせたほうが余程マシである。
果たして、応募が無かったものか、あるいは相応しい人材に巡り合わなかったものか、その間の経緯は知らぬのだが、2017年に始動したのは、地元在住有志による組織であった。これの構成員は熱意の方々と承知しても、釧路市当局に担がれたと云うことだろう。
件の「平成の大合併」以降、音別町の中心地から釧路市の辺境となった音別市街地は縮小するばかりに見える。全くに、これを「ふるさと創生」などと語った自民党政権は碌なモノじゃない。

乳呑川が細く海に注ぐ地点。海成段丘が大きく途切れて引きが取れるゆえか、古にも今にも撮影の好地点である。
地形も植生も、海も空も、太古から何ら変わらぬのだろう。
40年の歳月など、つい今しがたである。ただ、この当時に国道側を迂回していた通信線が線路沿いとなって、写真には些かうるさくなった。
列車は、413D<ぬさまい>。後追いではある。
この地域急行は、旭川発着の<大雪>と、<しれとこ>を介して運用が繋がった旭川機関区持ちと記憶する。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5  1/500sec.@f8 NikonY52filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopCC & Lightroom ClassicCC on Mac.


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大成 (根室本線) 2017

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その昔の貧乏旅の頃、自炊道具を持ち歩いてインスタントラーメンが主食とは、前にも少しばかり書いた。→ 桂川臨時乗降場 (函館本線) 1984
たまに菓子パンなど食べれば良い方で、汽車弁当など高嶺の花だったものだから、自炊を卒業して暫くはその反動もあってか、三食を汽車弁で回していた時代があった。コレクションの掛紙欲しさも手伝い、道内夜行の乗車には明朝分、降りた先では昼食分を調達していたものだった。汽車弁は旅の必需品であり、大抵の駅では深夜早朝と言わず入手出来た頃である。
乗継待ちや駅寝には「外食」(汽車弁で済むはずの駅の外へ出るので「外食」だった)もしたが、ちょっとした街なら必ず在った駅前食堂の類で済ませていた。弁当が白米ゆえ、この場合は麺である。
只々ストイックに写真を撮っていた頃と重なるので腹は満たされれば良く、その土地ならではの食事など考えもしなかった。青函連絡船の「あらまき弁当」、長万部の「北寄めし」、東室蘭の「はも弁当」、帯広の「きじ弁当」に厚床の「ほたて弁当」などの特殊弁当に、汽車弁だけでも十分にその片鱗に触れらたからでもあろう。加えて、帯広の豚丼にせよ、深川のジンギスカンにせよ、釧路のスパカツ、根室のエスカロップにせよ、当時に何ら情報のもたらされることは無く、全くの地元料理であった。札幌在住当時でも、おそらくどこかの店では供されていたのだろうがスープカレーなんて知らなかった。

狩勝や士幌線への拠点である帯広は、夜行への乗降には不利な位置から地上泊(車中泊の対語に用いていた)の機会が多く、駅ビル上階に在った「帯広ステーションホテル」を常宿にしていたことも、前に書いている。→ 帯広 (根室本線) 1983
1978年の初冬のこと、上野を19時過ぎの<八甲田>で出て、青函5便から<おおぞら3号>と乗継ぎ、まる24時間を掛けて帯広に降り立っている。帯広への直行は他に覚えが無く、メモをめくると日程の短い旅で、それこそ狩勝新線と士幌線だけを撮って帰京とある。宿舎は勿論に帯広ステーションホテルである。
この旅と思うのだが、夕食は特急食堂車をガマンして帯広の汽車弁と決めていたものが手に入らず、外食に出掛けたのだった。しかも、珍しくも駅を背に街中を歩き、そして見つけたカレー屋に入っている。
それは、看板にターバンを巻いたインド人が描かれながら、インディアンを名乗る店と記憶する。インド人=カレーとは、特製ヱスビーカレーのプロモ、芦屋雁之助の「インド人もびっくり」で子供心の脳裏深くに刻まれていたものの、インディアンと云えば、その昔のテレビ映画「ローンレンジャー」での「嘘つかない」ほうのイメージが先行して、インド人=インディアンが素直に結びつかなかったと覚えがある。(このあたり、五十路を越えた人にしか判らないかも知れぬ)

この店、正しくは「インデアン」が帯広地域のカレー食文化に深く関わったとは、ついつい最近になって知った。戦後の日本カレー史において、それまでの粉末インスタントルーに替えて固形型への本格移行が生じ、カレー産業第二次隆盛期と呼ばれるのは1960年代のことである。
一般家庭へのカレー食浸透期にあたり、こと帯広において「カレーとは鍋持参でインデアンにルーを買いに往くもの」とは大いなる脚色に違い無い、と今でも半信半疑なのだけれど、このカレーチェーン店の1号店開業が1968年であり、以来6年で帯広中心部に3店を営業とのデータには、それまでの帯広カレー食文化が希薄との前提に立てば有り得ぬでもなさそうだ。

晩秋の西陽を正面にするのは、2070列車。
2010年までは無かった、この芽室跨線橋へと大成駅から道道715号線へ出ると、彼方に何やら回教寺院の如きドームが見え、近づいてみてカレー店「インデアン」と知れた。この時、帯広駅前で40年近くも前に訪れた店の盛業の姿と気がつきもしなかったのだが、傷つき曇り気味なステインレスの皿は微かな記憶だった。


[Data] NikonD5+AiAF Nikkor ED180mm/F2.8D  1/500sec@f9    C-PLfilter  ISO320  W.B. 5560   Developed by CaptureOne8 Edit by PhotoshopCC & Photoshop ClassicCC on Mac.

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北母子里 (深名線) 1980

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朱鞠内からの車窓に、五万図の道路を視認した上で北母子里に降りたものと思う。
40年近くを過ぎて記憶も曖昧なのだけれど、勿論に要員の詰めていた駅舎を後に、家屋も散見された駅前通を進んで、突き当りの道路へ左折、間近の十字路をさらに左に曲がると、朱鞠内湖北岸へと続く砕石がきれいに敷きつめられた道に出た。この頃の足元が既に登山靴だったかにも覚えはないのだが、なんにせよ砕石の道とは歩くには不向きで、先の難儀を覚悟した覚えはある。

この道路が、1970年8月22日付で認定された道道688号名寄遠別線である。当初から起点を名寄市、終点を天塩郡遠別町として認定された路線ではあったが、今に調べると、当時に存在したのは、同年10月29日に起工して開通の幌加内町字母子里地内の260メートル区間に始まり、順次延長を重ねた同町蕗の台地内までの10キロ余りに過ぎず、まだ新しい砕石の端正な姿に落胆した地点が最初の工事起点であり、ここからは東へ向かっても1.5キロばかりは開かれていたと知れた。
この道道は、60年代の計画段階から国=北海道開発庁(当時)が、『道路法施行令』(1952年12月4日政令479号)の第32条に基づき指定した、所謂「開発道路」であった。この制度下では、政令施行以降1970年度まで、道内に既存の市町村道の多くが指定を受けており、ひとたび「開発道路」とされれば、その改良と維持、管理までの全てが国費で賄われたのである。それは新設の道路にも適用され、建設は国の予算にて進められた。条文で「当分の間」とされていた全額負担は、1971年度以降に道にも求められるところとなるが、70年代を通じて建設費なら95パーセント、除雪を含む維持費や改良費も80から90パーセントの国庫負担が継続された。

開発庁の地方機関である北海道開発局が計画を進めた60年代後半は、広大で開発も急務とされた道内での道路整備も一段落し、新たな指定も絞られつつ在った時期にあたり、この名寄盆地と日本海岸を直結する道路の、構想は古くから在ったにせよ、予算要求と計画の具体化が随分と性急と資料に読めるのは駆け込み指定を狙ったものだろう。
官製に違いない急造りの期成同盟会(開発道路名寄遠別線建設促進期成会)には幌加内町の他、起終点の名寄市と遠別町は当然として、日本海沿岸幾つかの自治体も加わるのだが、それが一斉でなかったのは、幌加内町を除けば然程に熱心では無かった現れとも見て取れ、計画の核心は、同町が仕掛けたであろう母子里と名寄を短絡・直結する「名母トンネル」に在ったと思われる。その証に、同トンネルは5年の工期を経て1987年9月に貫通するも、幌加内と遠別の町境を跨ぐ7.8キロ区間は開発道路指定から50年に迫る現在にも未着工である。日本海岸自治体は、何やらダシに使われた感が無きにしも非ずで、最初の着工区間が母子里から西区間と云うのも、これを糊塗しようとしたものと深読み出来ぬでも無い。

朱鞠内湖北岸の隧道を抜けて来るのは、944Dの朱鞠内行き。隧道名称は知らない。
件の開発道路を3キロ程度歩いた位置であり、勾配も然程で無かったはずだが、砕石に足を取られながらには随分と遠く感じたものだった。
この頃には、白樺や蕗の台にも通じていて、彼の地は共に自動車交通の手段も手に入れたことになるのだが、如何せん両地区とも既に居住者は皆無であった。この後も何度か歩いたこの道で、丸一日通行者に出会ったことは一度も無い。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5   1/250sec@f8   Fuji SC48 filter   Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopCC & Lightroom Classic CC on Mac.