"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

鬼鹿 (羽幌線) 1977

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ニシンの生態に関する学術研究が本格化するのは1900年代以降であった。勿論、それが資源と認識されてのことであり、かつては新潟でも大量に漁獲された北海道樺太系群のニシンが奥羽地域北部からも去り、この頃には未だ大漁の続いていた北海道西海岸での資源確保が喫緊の課題されたゆえであろう。
漁業者に伝承は残されていたと思われるが、古文書の解析からその資源量の長期的な周期変動が裏付けられ、西欧での研究を取り入れた調査では、卓越年級群の出現頻度がその動向を左右することや、その出現は低く推移した海水温が関係すること、幼魚の生存には好適かつ豊富な餌(ブランクトン)との遭遇を要することなどが明らかとなった。
現在に至るまでには、さらに深度化された研究の続けられ、種として見ればニシン資源はマイワシやスケトウダラの資源量変動と逆相関にあること、それは地球規模の海洋環境に連動することが知られるが、産卵海域にて区別される系群単位では、やはり卓越年級群の発生状況により変動し、それは卵から稚魚期における生き残り数に左右されることが、より明確にされて来ている。
けれど、年級群の資源量にも当然に関係するはずの海洋環境の変動との相関のメカニズムには研究者間に諸説あって定説には至っていないと云う。
よって、1887年の97万トンをピークに増減を繰り返しながらも漸減し、1920年代半ばに減少傾向が明らかとなり、1950年代には壊滅的となった北海道西海岸における北海道樺太系群のニシン資源についても、消滅に至る事由が解明されたではない。プランクトン組成が変容した結果とは明らかでも、海洋環境が如何様に影響したかに説はあっても確証は得られぬのである。20世紀初頭ともなれば、漁具の改良や漁法の革新などによる著しい漁獲量増加の人為的要因も無視できぬに違いないが、これがどのように影響したものかも仮説の域を出ていない。
留萌郡鬼鹿村を含む石狩北部から宗谷に至る沿岸での鰊漁の終焉は1955年と記録されている。青森西海岸・渡島地方での1912年からは40余年、後志南部の1937年からでも18年を遅れ、この間に30万トンから20万トンの漁獲を維持した事由も明らかでないらしい。春鰊は実に時間をかけて南下南限を北に移したものだが、地球規模の変動からなら1秒にも満たぬ時間なのであろう。

1957年まで鰊漁が行われたと云う留萌地域沿岸には、1970年代半ばまでなら多くの鰊番屋が廃屋として残されていた。この時期北海道西海岸の残存全鰊番屋を撮影し続けた写真家樋口英夫氏によれば、増毛から苫前まで島嶼を含んで19箇所とある。鬼鹿地内には花田家番屋と隣接して小川家番屋が記録される。前者は現在にも観光資源として現存するが、後者は遠に解体されている。

鬼鹿の下り場内信号機を越えて上り方に進出して往くのは、826Dの深川行き。幌延から5時間をかけて走っていた。
画角左の建物は、鰊番屋に付帯して浜に建てられた「倉(くら)」と呼ばれた施設である。漁獲の一時貯蔵施設の「廊下(ろーか)」に対して、これは漁具の置き場に用いられたものと思う。手前側には鰊船が打ち捨てられているのも見える。
画角右側へはこの頃執心していた浜番屋(漁師小屋)が連なっていたのだけれど、段丘下の線路とは間に国道を挟むなど距離があり、まともな絵は撮れず仕舞いだった。

=参考文献=
近代北海道における鰊漁業の歴史地理学的研究 (服部亜由未 名古屋大学大学院論文2013年)
北海道におけるニシン漁業と資源研究 (小林時正 農林水産省水産庁報文2002年)
北海道における漁家住宅の歴史・地域的特性を活かすための研究 (駒木定正・小林孝二・山之内裕一 2015年)
北海道西海岸 鰊番屋全記録1976ー79年 (樋口英夫WebSite)


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/500sec.@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.



新狩勝信号場-広内信号場 (根室本線) 1980

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1958年6月19日に国鉄総裁あて提出された「動力近代化委員会」(1958年2月17日付総裁達第64号を以て国鉄本社に設置)の報告書には、ディーゼル機関車の将来の運転分野として、非電化線区・区間での貨物列車、電化区間より直通する客車列車、および入換用途と記されていた。そして、これを受けた工作局部内での検討により、動輪周出力1200PS程度の大型機、同800PSの中型機、同じく550PS程の小型機を開発し、動力伝達方式は液体式とすること、軸重は丙線規格への入線から14トン以下が望ましく、大型機には蒸気発生装置の搭載も考慮することなどの、おおまかな方針が立てられたのだった。
本線用大型機の目標とされた動輪周出力の1200PSとは、このクラスが将来的にも現用のD51形式蒸機を代替する出力で十分と考えられ、DD13の経験からは内燃機関の低速性能が蒸機よりも優良なことも勘案の上で導かれたのだが、それに従い開発され、形式をDD51と付された機関車は1000馬力機関の2基搭載にて同1400PSを実現していた。それは、低速域でのD51は勿論のこと、40km/h以上の中高速域で旅客機C61をも上回るものだった。
投入を急ぐべきとされた東北・信越・鹿児島・長崎線の各地方幹線には誠に相応しい性能だったのだけれど、1961年度末に出場した試作1号機は、2基の液体変速機の不協調と14tの軸重から勾配引き出し性能が計画値を大幅に下回る事態となった。貨物機とすれば致命的であり、量産計画を遅らせての設計変更がなされ、ノッチの多段化などの改良が盛り込まれたほか、2次試作機とされた2号機は軸重15t、3次試作の3・4号機には中間台車による14tと15tの軸重可変方式が取り入れられた。その改良機は1963年4月に東北線盛岡付近において、10‰勾配からの1260トン引き出しに成功、その際の粘着性能も交流電機に匹敵する摩擦係数40を記録して量産への目処を達成したのだった。(他にも軸重14tにおいても過大となったK荷重からの低規格線での速度制限問題などを生じたが、ここでは割愛する)
開発時には旅客機・貨物機を兼ねるDD51を母体に、重貨物用をDD52、除雪と貨物牽引兼用をDD53とする計画があり、後者は実現したものの、想定外の設計変更にてDD51で十分に貨物仕業への投入可能となれば、それは蒸機発生装置に替り死重を積んだ番台区分とされて前者は空番となったのである。

ここまでは内燃の識者ならとっくにご承知のことだろう。けれど、その貨物専用機が1962年当時、5動軸即ちDE50として計画されていた事実は余り知られてはいないと思われる。1969年に至って試作機の出場した軸配置をA・A・A-Bとした機関車のことでは無い。DD51のヴァリエイションとしてB-A-Bにて計画されていたのである。まずは、狩勝峠区間の長大トンネルを伴う新線への移行にて全面無煙化が必須だった根室本線が投入の想定線区であった。
12パーミル連続勾配の縦断線形で設計の狩勝新線において、将来的に計画の根室線貨物列車の1000トン牽引には4動軸機では粘着力が不足と考えられ、DD51の前後台車中間に動軸を追加し、変速機からプロペラ軸で駆動させる方式が検討されたものである。これが立ち消えとなったのは、軸重を15tとした2次試作機が前述のとおり、勾配引き出し試験に成功したことに加え、機関出力2000PSを以てしても、12パーミル勾配での1000トン牽引における均衡速度は25km/hの低速となり、何れにせよ重連仕業を避けれない事情からも、重貨物機の製作は得策で無いと判断された故であった。

清涼な風力の遍く渡り往く盛夏の狩勝新線を上るのは422列車の滝川行き。マ級を含むとは云え、客車の6両はDD51には楽な仕業だったろう。
1976年当時、根室線貨物はDD51による定数100でスジは引かれていたのだけれど、富良野-帯広間に1000トン貨物の運転はなかったと記憶する。下りの特急貨物3053だけが狩勝を重連で越えていたものの、コンテナ車12両の600トンには速度確保のためだった。(石油輸送の5472も重連だったが、これは定期回送による)
この当時も増田山はここでの定番位置になっていたものだから、敢えて外した画角を試している。昨年秋のこと、久方振りに訪れたが、周辺樹木が成長してこれは撮れなくなっていた。

趣味的にB-A-B機は誠に興味深いのだが、後にプロペラシャフトに起因する事故がDD54に引導を渡したことを思えば、仮に実現していても短命だったように思える。

=参考文献=交通技術 1963年9月号 通巻215号 (交通協力会)

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


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