"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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八雲 (函館本線) 1972

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鉄道と道路との立体交差、ここでは跨線橋のことなのだが、今昔に撮影の立ち位置である。特に目ぼしい俯瞰画角の見いだせない区間に在っては貴重に違い無い。けれど、都市部以外にこれが出現したのは、経済成長に道路交通が飛躍的に増加した1960年代以降のことになる。全国的に主要国道とは名ばかりの土道だった地方幹線道路の改良が進められ、これには鉄道との平面交差の解消は命題とされていたのである。山越郡八雲町域(当時)を縦貫する一級国道5号線も道央道南連絡の幹線道路として、その対象であった。

1957年の落部村との合併により、栄浜から黒岩までの33キロ程となっていた町内国道の改良工事は、北海道開発局函館開発建設部八雲出張所(現八雲道路事務所)により、1958年の八雲市街地区間の舗装工事から着手され、1967年に一応の完了を見るに至った。栄浜から栄野への鉄道路盤からの転用区間を含めて拡幅と舗装は勿論のこと、この間の橋梁22箇所は全て永久橋に架替られ、函館本線との平面交差箇所の立体化も施工されたのだった。
市街地南端に位置する、内浦町の八雲跨線橋は中でも工事末期まで持ち越された地点であり、1967年の3月に供用が開始されている。鉄道側では山越-八雲間の線増工事只中であり、当初より橋梁部の複線を跨ぐ径間で建設された。ここでは小河川の熱田川も交差し、径間延長を避けて立体交差の盛土底部に小型のコンクリートケーソンを埋設し流路としたのだが、近年の集中豪雨に対する流下能力の不足により、溢水が函館本線路盤を洗掘して通過貨物列車の脱線に至ったのは記憶に新しい。

八雲方から八雲跨線橋に差し掛かるのは124列車である。長万部から函館までを砂原回りで4時間をかけていた。
区間列車にかかわらず基準方に荷物車を連ねた函館線普通列車には当たり前の姿は、ネットワークが独立していた室蘭本線内からの継送のはずである。
機関車を中央に配置するあまりに後部を切らせてしまった、まだ拙なかった技術をご容赦願いたい。

線路と南東から北西方向に交差する八雲跨線橋の設計は、将来にその先を八雲バイパスとして海岸沿いに延長する計画に依っていた。それの実現は遠く1983年のことであったから、暫定的な現国道への接続には半径50メートルの反向曲線を介在させたところ、それは急曲線の事故多発地点となってしまった。1972年には曲線改良のなされたものの跨線橋からの下り勾配も相まって、永く運転者を悩ませたと八雲町史は書いている。
現在跨線橋線路乗り越し部には、御多分に漏れず丈の高いフェンスが設置されてしまったのだが、並行して1980年に架けられた八雲跨線橋歩道橋には何故か設置が見送られ、この八雲方への画角は今も健在である。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f4-5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

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厚岸 (根室本線) 1971

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根室線の釧路以東区間を久しく訪れていない。記録を遡ってみれば1986年の夏前が最後だから、もう30年を経過する。
厚岸湾岸、辺寒辺牛湿原にせよ、落石千里浜にせよ、その景観は変わらぬだろうが、鉄道屋なので、やって来る列車に魅力が乏しければ、どうしても足は向かぬのである。この間、札幌所の寝台車で組成された臨時運用が幾度か施行されたけれど、沿線の騒ぎを思えば遠慮申し上げるしかなかった。
周遊券・周遊きっぷや自由乗降型企画券が遠い過去となり、道内夜行が皆無となれば、それは「周遊旅行はするな」と云われているのと同義だから、最近には航空機で行き来するピンポイントの撮影ばかりで、釧路にも随分と出入りしているのだけれど、釧路以東と云えば至近の釧路川橋梁で単行気動車を眺めるのがせいぜいである。

厚岸の根室方、線路が厚岸湾岸に接近する位置に所在した、湖面での漁専用の小舟の繋がれた船溜まりには、1970年の初遠征で訪れて以来に幾度も立ったものだった。下り列車なら線路際から、上りに対しては粗末な岸壁から前景に小舟をとらえるのが定番の画角である。
この位置は、先住民がタンタカと呼んだ地から厚岸湾に突き出し、厚岸湖との境を為すように発達した砂州の内水面側の、1960年代前半までの埋め立てにより出現しており、本来には岸壁とは云えず、本当に粗末な木杭と木板で土留めがされているだけだった。干潮ともなれば、写真のように泥の底が露出して係留の小舟が取り残される有様だったのだけれど、70年代末には浚渫もなされ、土留めも岸壁を兼ねたコンクリートに改修され、線路寄りには船揚場も整備されて船外機の小舟ばかりでなくエンジン船も見られるようになっていた。
岸壁上には漁師小屋も並び漁具も無造作に置かれた一通りの漁港風情には、浜番屋に執心していた時期でもあり、幾度も通った理由のひとつであった。ただし、それにお見せできるような成果は手にしていない。

写真は、駅も間近にこの位置をゆっくりと場内信号機に接近する464列車。根室から釧路操車場までの区間貨物である。
G2Type後藤デフにJNRロゴのこの機関車についてはWebに幾らでも記事がある。個人的には必然の無いデフ改造に装飾は(加えてランボードにテンダ上縁の白線も)、ブームを当て込んだわざとらしさが鼻についたものだった。

ここは1990年代に至って、さらに埋め立てが行われ、線路と平行方向に船揚場が拡張の上移設されて、立ち位置としては失われた。もっとも、写真で造成の進められていた様子の窺える背後の丘陵に住宅の建ち並んだ今には、あまり魅力は無い。
移設船揚場の後背地で絶滅危惧種厚岸草(珊瑚草)の人工栽培が行なわれているとは、以前の記事 厚岸 (根室本線) 1972 に書いた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400)  Edit by LightroomCC on Mac.


島松 (千歳線) 2004

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その昔、親父との大衆車パブリカでの日曜ドライヴで、広島街道を厚別丘陵を越えて長沼方面へと走ると、まっすぐな道路の行く手を遮るような黒々とした樹林帯を幾度も眼にしていた。これを横切る途中で自動車を降りてみれば林中の如くであったし、並行する道を行けばどこまでも尽きぬ延長にも感嘆したものだった。
石狩平野に広く分布する国有の防風保安林である。札幌に暮らした分には身近な風景だったけれど、内地にその規模をみることは無く、植民区画に由来して整然と区画された耕地を大規模に縁取る防風保安林は、これも北海道の独自な景観と思う。最近にWeb上でいくらでも閲覧可能となった衛星画像を確認すれば尚更の感がある。特に、西側に後志の山系へと続く丘陵地を眺める長沼低地は、作付けの春先にそこから吹き下ろす冷風の回避からか、多くの防風保安林が設けられているのが見て取れる。それは高高度の撮影にもくっきりとしたグリーンベルトである。
これらの起源を調べるに行き当たった資料は、札幌営林局(当時)による1975年の「都市化地域防風林の整備調査報告書」だけゆえ、一次資料を直接に調べていないことをお断りするのだが、それには1886年に始まる北海道庁による殖民区画の選定過程(本文書には「殖民区劃測設」とある)から農耕地間に「防風林帯として」(原生)森林を存置した旨が記載されており、1896年には「殖民地選定及区劃施設規定」を制定して「防風林ハ少クモ1,800間毎ニ之 ニ相当スル土地ヲ適宜存置スヘシ」と定めたと在る。
3キロあまり毎に設けよ、とは道内の広大な耕地面積を考慮したものであろうし、その面積に効果を及ぼすにはあれだけの帯域を要したのであろう。調べ得なかったけれど、80から100メートルの幅は当時での44間から55間を基準とした思われる。
このように原生林の存置を意図したものであったが、実際には開墾にともなう伐採も進んでしまい、一部には防風林帯としたものの草地に放置されたり、天然更新のヤマグワやヤナギなどの林相と化したりであったため、1897年施行の『森林法』で保安林と規定し、道庁は1907年に「北海道国有林整備綱領」を定めて造林事業を推進したようである。その結果、1920年頃までには現在の如きヤチダモを主体とした樹林帯の出現を見たと云う。
この規模の大きい防風保安林を地元の農家は、そこを薪や木炭など生活材の調達先に位置づけ保全に努めた。つまりはその6キロから8キロに及ぶ延長からは、ひとつの「里山」であり、彼らの呼称も「お山」だったと聞く。

1926年8月21日開業と記録の北海道鉄道(2代)札幌線は、千歳-恵庭間の2箇所と島松停車場北側で、この防風保安林を切り開いて敷設された。前者は、現千歳線の長都とサッポロビール庭園付近であり、特に長都はその伐採跡に立地している。島松の北側で斜めに横切る防風林帯は幅が30メートル程と小さく、これは20間と云う規格なのだろうか。
そのさらに北側、島松神社からそれを越えた向こうの南19号線踏切には幾度も通った。南北方向の線形には上り特急寝台列車通過時刻なら西側からの斜光線を浴びたからなのだが、改めて過日の原版を確認すると降雨下の撮影も多い。明確に意識したでは無いけれど、島松の駅から然程遠く無い位置には「雨傘」にもしていたと云うことだ。→ 白石 (千歳線/函館本線) 2000

写真は、ルルマップ川橋梁への10パーミルを駆け下りる8002列車。画角の何度もの既出はお詫びする。
この日のことはよく記憶していて、前夜の<利尻>で南稚内に降りたものの、雨天に嫌気の差して<スーパー宗谷>で蜻蛉返り、そのままここに立っていた。この後も数日に悪天の続くことが予報されたので、モノは試しと島松でマルスを叩いて貰えば、運良く当日4列車の1人用個室A寝台のキャンセル分に巡り会い、それで帰京している。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6  LBA1 filter  Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push]  Edit by LightroomCC on Mac.

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