"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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川湯 (釧網本線) 1977

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御料地とは皇室の所領を指しての言葉と云う。そして、皇室を存立足らしめる天皇制は、徳川幕府より政権委譲(断じて「維新」などでは無い)を得た薩長政権が唐突に持ち出し、民衆の支配に利用した根拠の曖昧な装置である。そればかりでは無い。これは土地の収奪と隔離にも用いられた。勿論に為政者の利権確保のためである。

薩長政権は、先住民が全く預かり知らぬ間にアイヌモシリ全土の領有を宣言し、すべての土地を官有地とした。その上で、この独裁政権は、1872年の『地所規則』に『北海道土地売貸規則』に始まり、1886年に『北海道土地払下規則』を、1897年には『北海道国有未開地処分法』(旧法)と矢継ぎ早に制定し、それこそ勝手に地積処分を行った。その過程で支配階級による広大な土地所有制が確立して行ったのである。
独裁には、所詮は同じ穴の狢であり支配階級内での権力闘争に過ぎなかったのだけれど、やがて議会開催を求める自由民権運動を生ずる。強権的弾圧で対抗するも、その高揚に抗しきれぬと見るや懐柔にて沈静化を図った政権側は、1889年に非民主的な『大日本帝國憲法』の制定に漕ぎ付けると、翌1890年に第一回総選挙を施行し帝國議会の開催を受け入れた。
しかしながら、政権基盤であった国有財産への議会の関与を嫌った薩長政権は、これに先立ってそれらの皇室財産への編入を画策し隔離・温存を図ったのだった。官営に発する銀行や商社など国有企業の株式は皇室への献上を以て政府資産から切り離され、官有地・官有林は大規模に御料地への編入が行われたのである。この結果、1873年度末に約193万円だった皇室財産は1889年には975万円にまで増加したと記録される。これは大財閥と呼ばれた三井・岩崎・住友の各新興資本の合計総額を遥かに上回るものであった。
当時に釧路国川上郡熊牛村に属した熊牛・弟子屈・美留和・跡佐登原野においても植民区画の引かれていた578万坪を除く2000万坪と云う広大な官有地が1897年に皇室財産へと編入、御料地・御料林とされた。(数字出典は弟子屈町史だが、やや疑問が残る)
それは阿寒湖・摩周湖を含んで、1923年に成立した弟子屈村は村域の大半が御料地と云う特異な自治体となったのだった。そして皇室財産の観光地に、鉄道省は1936年の川湯停車場本屋の改築に際して、それに相応しい洒落た山小屋風意匠とし、果たして利用を想定したものか内部には貴賓室をも設けた。道内駅として現在までも唯一の事例である。

凍てついた川湯の下り乗降場。列車は混合636列車の網走行きである。行き違いも無いのに、ここで10分ばかりを停車する。
釧網線の客車はウェバストヒータ装備にてスチームの上がらないのが物足りないけれど、静まり返った中に低く唸るそれの動作音と微かな石油臭も、二度と帰らない鉄道情景だろう。
19時前はまだ宵の口に過ぎないが、日没の早い道東なら早くも深夜の趣ではあった。シャッタを開け放って絞り込んだレンズに夜を吸い込ませるのはモノクロームの、それも銀塩の領域と思う。

今に続く保守勢力の権力基盤は、天皇制を隠れ蓑にした姑息な収奪により築かれた。蝦夷地に限れば侵略と略奪と云うことである。とは云え、当の天皇自身もまた加担した罪は免れ得ない。被災地見舞い好きな千代田区在住の好好爺夫妻は極めて真っ当なリベラルに見えるのだが、曾祖父の行状をどう振り返っているものか、興味深い。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 bulb@f8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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尺別 (根室本線) 2008

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道内におけるDD51型内燃機関車の運転が「ようやくに」終了した。それは1966年度末の旭川機関区への配置による石北トンネル越え、塩狩越えの補機運用を嚆矢としていたから、爾来半世紀に迫らんとする歳月は、確かに「ようやく」としても良いだろう。もちろん、この際の投入車が生き残ったではないけれど、それでも函館運輸所の最後の5両は全て1975年の新製車両につき、車齢は41年に達する。現在苗穂工場に保管されるC623でも1973年10月の運用離脱時のそれは25年に過ぎなかったから、恐ろしいほどの老朽機関車と言える。
ハーフサイズ写真機から一眼レフを手にした蒸機の終末期以来、釧網線や江差線で、後には天北線でDE10なり15に出会えたとは云え、この機関車を常にファインダーに捉え続けたには、時代の巡り合わせに違い無いとしても、20余年を過ぎれば些かに食傷気味なのが正直なところであった。言葉を変えれば「飽き飽きして」いたのである。
その凸型車体には入換機の印象を拭えないままに加えて、貨物鉄道会社に現れた機関更新機に対する赤系や青系の新塗色に、旅客鉄道の客車に合わせての青色20号など違和感ばかりが先に立ってどうしても馴染めぬのが追い打ちをかけていたとして良い。そこが北海道で、それが寝台車を連ねた特急列車でなければ写欲も失せていたことだろう。「ようやく」とするのは、そんな想いもある。

そこに登場した貨物鉄道の手になるDF200型電気式内燃機関車の、パノラミックな2枚窓を配したフロントデザインの本線機らしい箱型車体には、積年の恨みが解ける気のしたものだった。
試作機は1992年4月2日に五稜郭機関区へ回着しながら、一千トン牽引試験で死重を積んだコンテナ車の20両編成を牽いたりしたものの、なかなか営業には投入されずにいたのだけれど、その単独牽引が1993年の5月11日から4061-3070列車で実現し、運用区間も五稜郭-札幌貨物ターミナルに拡大されれば、開発事由の一つであった千歳線内での走りを撮りに渡道したものだった。以前の記事 南千歳 (千歳線) 1993 は、その際の一枚である。
90年代も後半に至り、その配備が定着した頃の渡道は、寝台特急とこればかりが被写体であり、この時期には道南地域にばかり通い、そこから外へ出なくなったのもそのためであった。
やがては運用区間も新旭川へと拡大、2008年春の改正からは根室本線を新富士へと辿るところとなった。これは撮らぬわけには往かない。

寂れた尺別の集落を背景に冬支度の原野へと踏み出すのは2091列車。
根室線への運用設定には、尺別 (根室本線) 2003 と5年を隔てて同じ丘に上った(ただし樹木の成長で全く同位置とは往かなかった)。季節も被写体も同じならレンズも同じなのだが、写真機はディジタルに替わっている。前年にNikonが35ミリフルサイズ機をラインナップしてくれたからである。それは待望した機材だった。

ご承知のとおり、DF200は2014年には低い線路規格に困難とされていた石北本線の臨貨運用にも進出した。この事態には少しばかり躊躇した末に、二度と踏み込まぬだろうと思っていた常紋の峠道に立つことした。札幌からの移動も前泊の宿からして見渡せばご同業ばかりと云う環境に、旧い鉄道屋はやはり困惑したと書いておく。

[Data] NikonD3+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f6.3 C-PL filter ISO320 W.B. 5260 Developed by CaptureOne9pro Edit by PhotoshopCC & LightroomCC on Mac.

張碓-銭函 (函館本線) 1980

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国有鉄道当局が、函館札幌間列車の東室蘭・苫小牧経由運転の可能性を認識したのは、戦後の駐留軍専用列車が契機と言われている。1946年11月5日からその経路を辿った横浜-札幌間のYankee Limitedである。
戦前の鉄道省にすれば、室蘭本線とは長輪線計画時から岩見沢以北と青函航路との連絡を目的としており、沼ノ端で接続の札幌方面線が線路規格の貧弱な私設鉄道だったことからも、これを札幌連絡に用いるなど考えもしなかったのである。
その北海道鉄道(2代)札幌線が戦時買収にて国有鉄道に編入された中で、駐留軍司令部は単純に部隊が展開する千歳線沿線への直行を命じたに過ぎぬのだが、ガソリン動車が行き来するばかりだった極めて劣悪な線路へ客車を連ねた本線列車を運転してみれば、20パーミル勾配で越える峠の連続する函館山線に比して遥かに良好な運転条件を備えた新経路の「発見」に至ったのだった。

けれど、函札間連絡の優等列車は引き続き険しい峠道を経路とし、千歳線の改良を背景に1961年10月改正における道内初の特急列車が同線経由で設定されて以降、次第にこれが主要経路に位置づけられてもなお、山線側にも67年に至り特急が設定されるなど、優等列車の運転経路として双方の並立は永く続いた。
これは、偏に山線経路上に位置した小樽の存在ゆえと云えよう。60年代から此の方、札幌が一人勝ち的経済成長を遂げたとは云え、小樽の都市経済力もまた無視し得なかったのである。国鉄もさぞかし悩ましかったに違い無く、本音では全ての優等列車の室蘭・千歳線運行を希求しようとも、小樽の地理的位置が阻んだとして良い。
80年代には既に一部列車を残すのみだったけれど、道央と道北・道東方面列車でも小樽発着の時代が永く続いていた。小樽築港機関区に小樽客貨車区が苗穂や札幌区より規模の大きかったのがその証である。
1986年11月改正でようやく実現の山線優等列車全廃は小樽の札幌都市圏内包を担保にしたものだろうが、当時にはこじつけの感を否めなかったし、今にも連続した都市圏とは見えない。それゆえ3扉の電車列車ばかりの行き交う現況に、小樽にも中間の手稲にも暮らしたことのある旧い鉄道屋はいまひとつ馴染めずに居る。

風雪の石狩湾岸を往くのは、903D<らいでん3号>。この年の10月改正で岩内線直通を廃し、急行形の投入で遜色急行を脱した姿は幹線急行の装いだった。降雪の線路を音もなく、滑るように走り去る。
今は優等列車を失い、近郊型電車だけの往来には魅力も薄れたけれど、この当時には一般型から急行・特急型の気動車列車に、急行型擬きの711系電車、電機・内燃機の牽く客車列車に貨物列車と、およそ道内運用の全ての形式が見られたとして良い。それは都市近郊線では無く、まぎれもない長距離幹線鉄道の姿である。

[Data] NikonF3+AutoNikkor180mm/F2.8C 1/500sec@f4-5.6 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

落部 (函館本線) 1989

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それなりの規模の集落を駅勢圏とする落部だけれど、その駅周囲は「駅前」の体を為していない。それはこの駅の来歴ゆえのことである。
アジア太平洋戦争末期に開通し上り線として用いられた別線新線、通称の海岸線上の停車場として開かれ、それは駅前後区間では既設線、通称山廻り線のさらに山側であったから、本来「駅前」となるべき位置は線路が通過する構内であった。1958年12月11日にその既設線が廃止されても、自動車通行を主体とした幹線国道への転用には、そこに「駅前」の形成される動機は生じなかったのである。1970年に初めて降り立った頃でも、駅本屋から少しばかり距離のある国道へは土埃舞う空き地の様相だったと覚えている。そこは用途を失ったままの鉄道用地だったから当然であろう。商店など立地するはずもない。
もっとも、1903年に北海道鉄道(初代)が開通した当の既設線自体、住民の鉄道忌避により停車場設置を見送って集落の背後を大きく迂回する線形で敷設され、開通の8年後にようやく開設の旧落部駅も市街地外れのさらに外方に位置するところとなって、街道(旧国道)から分岐した「駅前通り」が開かれるも、そこへの市街地拡大には至らず仕舞いだった。
(市街地迂回は海岸段丘上から一旦落部川沖積平野に下り、再び段丘へと上るには必然の線形だったとも云え、このあたりの事情は、上記の変遷ともどもWebSiteの記事「石倉-野田生間の改良と線増」に詳述している)

新旧ともに「駅前」を持ち得なかった落部に降りて困ったのは、やはり食料の補給であった。海寄りの市街地まで踏み込めば食料品に雑貨の商店が所在とは承知していたけれど、徒歩の鉄道屋はそこまで迂回する気にもなれなかったのである。
自動車が行き交うばかりの殺風景な国道沿いへ、ようやくに商店が開かれたのは1980年代の中頃と覚えている。野田生方のポイントへと歩き始めて直ぐに、その看板を見つけるも洋菓子店とのそれには落胆したのだった。その類は不得手ではないものの、行動食にはなり得ない。
以来、そんな立地でケーキ屋の成り立つものかと訝しく思いながら、幾度となくその前を通り過ぎていたのを、ある時にウィンドウ近くまで接近して知れた。洋菓子と名乗れば当然にケーキやら焼菓子を思うのだが、ケーキなど冷蔵ショウケイスに僅かが並ぶのみにて、そこは実質的にパン屋だったのである。
その店、「シェルブールすがわら」は、八雲町商工会議所の資料には1985年の開業と記され、記憶と一致する。主人にしてみれば、本来の洋菓子店を目指したのかも知れぬが、あの立地では成り立たなかったのであろう。ベーカリーとて良くぞ彼此30年の営業とは感心してしまう。

東野側の急峻な段丘崖下を往くのは150列車。
萩野に着発した王子製紙の製品輸送列車にワキ5000が運用される末期の姿である。それの老朽化にはコキ50000に5tコンテナを固定して用いると云う、何やらパラドキシーな措置が採られた。なお、写真の後位側コンテナ車組成は、一部が先行したでなく札幌(タ)発編成の併結である。
せっかくに食料調達先と知れた「シェルブールすがわら」だったのだが、この頃には駅至近にコンビニ(セヴンイレヴン)が開店し、あまり立ち寄ることは無くなってしまった。けれど、コンビニにもある惣菜パンに走らず、本来の菓子パンを並べていたのは洋菓子屋の矜持だろう。森から八雲までの間では唯一のベーカリーに違い無く、自動車利用を前提にそこを商圏としているのが30年の盛業の所以であろうか。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6-8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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