"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

釧路 (根室本線) 1978

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釧路駅前を左手へ線路沿いの道路を進めば、程なく旧釧路川に架橋の旭橋に達し、そこから川上方に根室本線の釧路川橋梁を眺められた。駅至近のお手軽な位置でもあり、幾度も立っているのだけれど、その分だけ雨傘(釧路なら霧傘と云うべきか)だったり、時間的に動きのとれない場合の代替地だったりで、あまりまともな写真は残っていない。

1917年12月1日の釧路本線の厚岸までの延長に際して架橋の鉄道橋に対して、旭橋はずっと時代を下った戦後の、しかも高度成長期とされる時代にあたる1966年10月12日の開通である。この永き間、釧路川左岸から業務市街地へは1889年から所在の幣舞橋(最初の架橋時には愛北橋)もしくは1933年12月に架橋の久寿里橋まで迂回せねばならなかったから、当時の都市計画を閲覧したではないけれど、増大した市街地交通量には3本目の架橋を要したには違い無い。
戦後間も無い1947年の空中写真に農地の広がる左岸側の段丘上部は、1961年には宅地への転用が始まっていた様子が見て取れ、架橋直後の1967年となれば街路の整備が進み僅かばかりの畑作地を残すのみと成っている。旭橋により中心街へのアクセスが格段に向上した証左であろう。
その架橋位置は材木町の町名が示す通り川沿いには原木の野積場が続いていたところであるが、同じ1966年の9月1日には上流右岸の釧路村(当時)と跨る位置に釧路水面貯木場の供用が始まったこともあり、旭橋たもとの鉄道橋までのそれの移転した跡地河岸へは1967年には岸壁を伴った施設が建てられていた。そこには漁船の係留も見てはいるけれど、裏手には釧路臨港鉄道からの側線(専用線?)が引き込まれており、何らかの(おそらくは肥料関係の)工場だったと思うものの、施設名は失念している。岸壁が魚揚場では無かったのは確かである。鉄道橋の北側に接しては、戦前からの艀製作所である天寧造船所が健在で、そのせいか艀も多くが繋がれていたと記憶する。
釧路駅前から至近ながらのこの場末的河岸風景は、中小製造業が市街地に同居し都市河川が輸送路であった時代の当たり前の景観ながら、1967年5月25日付で成長する都市外縁の工業地域である西港に注ぐ新釧路川を釧路川とし、ここは旧釧路川と改められるなどの動きとも無関係では無かったようにも思える。前年には岩保木水門が完全に閉じられ、確かに釧路川とは分断された存在となっていた。

釧路川橋梁を渡るのは終着間近の混合444列車。
場末感をより一層に深めていたのが、鉄道橋直下の水面に朽ちるままに係留された木造の曳舟に筏だった。1967年の空中写真に認められず、70年夏に橋梁を通過した際には見ているから、その間に繋がれて放棄されたものだろう。
とは云え、写真の鉄道屋には格好の写材であり、旭橋に立つ度にそれを画角に取り込んでいたのが、この頃のネガに見て取れる。

旭橋はおよそ30年を経過した1995年に架け替えられ、その際に左岸の旧国道44号への接続ばかりでなく、緩やかな勾配にて城山の台地に取り付き、材木山の手トンネルでそこの住宅街に直接に達するところとなった。雑然とした工場や土場が全て取り払われた河岸は、北海道開発局による釧路川水系の治水事業を兼ねた河川整備計画(ふるさとの川整備事業)にて遊歩道の続く河岸公園化が進んでいる。
単行の気動車に趣味の悪い観光列車ばかりには、久しく此処に立っていないけれど、その無理矢理感溢れる余所往きの景観はとても居心地が悪そうだ。ただ、2001年4月5日に至って、ここが再び釧路川の名称を取り戻したことは喜ばしい。

[Data] NikonF2A+AiNikkor180mm/F2.8 1/500sec@f5.6-8 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

銀山 (函館本線) 1981

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1980年代には『日本国有鉄道経営再建促進特別措置法』(1980年12月27日法律第111号)に準拠して選定された地方交通線の事業形態の転換が続いた。ご承知のとおり、経営体を替えて鉄道営業の存続した線区も存在したが、多くはバス交通を代替として廃止の途が選ばれた。
必然的に人口過疎地域を経過地とする線区が大半を占めた北海道においては22線区が選定され、1990年までに地北線の140.0キロを除いた、実に1316.4キロもの線路が失われた。1981年10月1日現在の道内国鉄線延長は石勝線の開通により32線3996.7キロに達していたのだが、実にその33パーセント、三分の一を喪失すれば、道内の鉄道地図に空白の目立つようになるのは当然で、北海道周遊券が値下げされぬのはおかしいと毒づいたりしたものだった。
2008年に至って国土交通省北海道運輸局が行った「北海道における鉄道廃止代替バス追跡調査」の報告書(2009年3月)に拾うと、すべての路線で転換時点よりも利用者数は減少と報告されており、中には代替バス自体の廃止事例も含まれる。この報告に際して開かれた「北海道における鉄道廃止代替バス追跡調査検討会」(2009年3月17日札幌にて開催)議事録にも、バス転換を契機にした沿線のさらなる過疎進行への言及が読みとれ、特定地方交通線の主たる利用者であった通学生徒に高齢者は、前者が全国的な人口動態にて漸減した上に、代替バスの(一部に低床型ノンステップ車両導入事例の見られたとは云え)路面からの乗降の不便や、シートが小さく狭い車内の居住性の低下、そして何より便所を設備しない不安に後者が利用を諦め、やむなく世帯で沿線を離れるなどから過疎スパイラルに陥ったとある。小さな集落やら地域は、そもそもに経済規模が極小なだけに一世帯の離脱だけでも大きな打撃を受けるに違い無く、それがさらに次の離脱を誘発する連鎖である。

なるほど確かにその通りなのだろうが、些か説得力は欠く。過疎スパイラルは辛うじて鉄道の存続した地域でも変わるところが無いからである。バスへの転換はそれを早めた程度だろう。交通弱者とされる個別移動手段を持たない住民が鉄道利用者として残存したにせよ、彼らとて極めて限定された乗車チャンスによる生活時間の拘束が時代の間尺に合わなくなったのである。それを嫌えば、最早その土地を離れるしか選択の余地は無い。
かくて、皮肉なことに過疎はマクロには鉄道の沿線から進行する。鉄道と主要道路交通路が近接している区間では目立たないけれど、鉄道単独で通過するところなら如実である。
余市川の形成した谷底平野を遡る函館本線は、瀬戸瀬川の谷に出るべく稲穂嶺直下の稲穂隧道へ向けて山腹に取り付いて高度を稼ぐ。その途中の斜面に位置する銀山など、その代表例と言えまいか。肥沃な生産基盤である谷底平野を通過する道道沿いにはそこそこの集落が張り付くと云うに、1980年代までの駅前集落は今やほぼ壊滅の有様である。

馬群別の平野を見下ろして稲穂嶺の山腹を下るのは、903D<らいでん3号>。
その10月改正での幹線急行の廃止などで捻出の急行型が、ようやくこのルーラル急行にも充当されるようになっていた。
奥白滝-上白滝 (石北本線) 1977 に書いた、冬旅組写真の一枚のつもりで撮ったカットだが、これも永い事塩漬けのままである。葉の落ちる季節なら車窓には木立越しの視界が開ける。運良く、気動車は淡い雪煙を巻き上げてくれた。

翻って、バス転換路線とて沿線全てで過疎が深度化したでは無い。旧羽幌線の羽幌や旧標津線の中標津、旧名寄本線の紋別、盲腸線でも旧渚滑線の滝ノ上などである。沿線人口の総数は減じているにかかわらず、1970年代と現在との空中写真を比較すれば一目瞭然にこれらでの市街地が拡大したのを見て取れる。過疎域から離れた人口を吸収したとするのが妥当だろう。
函館山線沿線でも、余市や倶知安はそれに該当しようか。つまりは生活域が集中化しつつあるのだから、その間を線で結ぶ速達輸送は鉄道の分野である。その経路間が極端な過疎域と云うなら北海道旅客鉄道が主張するように、そこの駅を廃せば良い。線路が通っていればこそ、いざとなれば駅など幾らでも再開できる。線路そのものを失っては元も子もない。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f4-5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

札幌 (函館本線) 1984

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学生当時は勿論、その後も職業のフリーランスを良いことに道内へは、それこそ足繁く通った。夏の長い休みを周遊券の有効期間一杯に放浪するなどは出来なくなった替わりに、一度旅に出れば1週間から10日、短くても3・4日の行程を年間に幾度と無く繰り返していたのだから、右のprofileに書いた年間の延べ1ヶ月の道内生活とは決して誇張でなく、年によっては2ヶ月近くまで彷徨いていたはずである。
その間の主たる宿泊先とは、ここに何度も書いて来たように、札幌を基点に4方向に運行されていた夜行列車だった。宿代の節約が何よりなのだが、長旅の疲労に寝台などを選んでしまうとそれより高く付いたにせよ、夜間に長距離を移動出来る利便には替え難かったのである。とは云え、それを幾日も続けるわけにも往かぬから、適度に地上へ宿も取っていた。
けれども、札幌を泊地に選んだことはあまり無い。翌日を山線に入るなら小樽が、千歳線なら千歳なり苫小牧に地の利があったし、そこは、あくまで道内移動の中継地点との意識だった。勝手知ったるかつての地元でもあれば、敢えて宿泊して市内に出掛ける気もなかったのである。
それでも、行程上に宿泊を要する場合も在って、駅から歩きたく無い鉄道屋は南口正面、駅前広場の手稲通り向かいに営業していた「札幌ワシントンホテル」を宿舎に選んでいた。

1960年代末期から70年代とは、海外でのモーテルやB&B(ベッド&ブレックファスト)に相当する料金低廉な洋式宿泊施設の国内における黎明期にあたり、既存の商人宿を代替する業務旅行利用に特化したサーヴィス形態から「ビジネスホテル」と呼ばれた(和製英語とも言え、海外でのそれとはかなり異なる)。札幌ワシントンホテルは、同和鉱業系の観光事業会社だった藤田観光が全国チェイン展開の第1号店として1973年に開業したものである。
札幌市内には、地元資本により先行した同業態ホテルも所在したのだが、旅館業からの分離も不明確な当時には、洋室主体ながら和室も維持され、設備投資による料金への影響を嫌ってかバスルームを持たない個室も多くを占めていた。
その中でワシントンホテルの全個室へのバスルーム設置はビジネスホテルのあるべき容態を示したものと言えようか。その上で北4西4の東京読売本社の所有地に524室もの開設は、開業時点で一泊2000円前後の料金を実現しており、それは当時のアウトバスシングルを含めた札幌での相場でもあった。ホテル料金の価格破壊時代である現在と一概には比較出来ないけれど、立地と設備からは極めて低廉だったとして良い。
ただし、それゆえにシングルルーム当たりの床面積は圧迫され、驚くほどに狭かった。一番安い部屋ばかりを選んだせいもあるだろうが、小さなライティングデスクの他は全てがシングルベッドに占領され、壁面との僅かな隙間をカニ歩きの有様だったと記憶する。その狭苦しさと云ったら、宿泊経験のあるホテルではWebSiteに書いた高山駅前のホテルGO(ゴー)と双璧を為す。もっとも、ベッドに上がってしまえば、全てにそこから手が届くのは便利でもあり、早い朝に寝るだけには苦にもならなかった。

写真は、薄明の札幌駅3番線に到着した514列車<大雪4号>。
[北東航2]のマニ50と[札郵1]のスユニ50を隣の苗穂に置いてきてしまうのは、この2月改正からのことで、おかげでスハネフ14に接する機関車の姿を撮れるようになっていた。終着には荷物・郵便車に要した暖房の蒸気を盛んに捨てている。
1988年に札幌が高架駅となり北口が整備される頃となれば、それの至近に幾つものビジネスホテルが建ち並びワシントンホテルを宿舎に選ぶまでも無くなった。最後に利用したのは、86年の渡道だったと記憶する。ホテルは30年を経過した2004年に営業を休止、建物を建替えの上で2006年に再開業した。コンセプトも新たなグレードには翌2007年に藤田観光の新ブランドであるホテルグレイスリーに名を改めている。撮影の旅なら、北口の安宿で十分過ぎるから多分そこに泊まることは無いだろう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/30sec@f2.8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

上野幌 (千歳線) 2000

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地名のことであるから、野幌丘陵の南北稜線上、野津幌官林の原生林が広がる最高所一帯に付された椴山の名が、いつ頃から存在したものかを明確に記した資料などは無いだろう。トドマツが密生していたことからの和名ゆえ、そこに和人の杣夫(木樵)が入り込むようになったとされる1880年代の彼らによる付名であろうとは、想像に難く無い。1890年に、広島開墾からそこを横断して豊平川に架橋の東橋へと至る札幌道路が開削された時点には既にそう呼ばれ、1898年に丘陵頂上に建立された神社も椴山出雲神社であった。
その札幌道路沿いに選定された殖民区画は、当然にそれを東西基線とした上で、椴山に直交する南北基線が引かれた。現在の椴山交差点がほぼ交点に当たる。そして、1897年7月に発行された区画図によれば、その南北基線をやや外れた位置に、札幌道路から南へ、開墾地を外れて原生林の中を、当時にノホロ(現在の大曲と思われる)と呼ばれた地区の殖民区画へと向かう小道が描かれている。おそらくは、これが農場橋へと向かう鉄道屋達に馴染みの深い、現在の北広島市道大曲椴山線のはじまりであろう。西の里地域の開基百年に際して刊行された郷土誌「風雪百年」(2000年 西の里開基百年記念事業実行委員会編)には、かつてノホロへは、裏の沢川上流のベコネ沢沿いに辿ったと記されるから、これに替えて開かれたのかも知れない。
せっかくに道が通じたと云うに(と言っても獣道よりはマシな程度の踏分道だったに違い無い)、その一帯が先にも書いたように入植地とされず原生林が残されたことには、些か訝しく思っていたのだが、それは敢えて残したものだったらしい。20世紀初頭にも自然保護の思想は存在したのである。けれど、それは強固な国家意思に支えられたでなく、前に 静狩 (室蘭本線) 2010 に書いたごとく、経済活動を前には決して留意されぬのだった。ここも1921年3月3日に「野幌原始林」の一部として天然記念物指定を受けながらも、戦後まもなくに開墾地とされるに至った。1945年11月9日に閣議決定の「緊急開拓事業実施要領」によってである。
この戦後緊急開拓については、猿払 (天北線) 1986 に概略を記したので繰り返さないが、急増した人口を吸収する「開拓」用地の不足には自然保護など二の次にされ、先の椴山から大曲へと辿る小道の、1926年には開通していた千歳線までの一帯には「新光」と名付けられた部落(敢えて当時の呼称とする)が開かれ、13戸が移住したのだった。樺太や遠くシベリヤからの引き揚げ者を含んだけれど、この施策が開拓農家の次男坊・三男坊の受け皿に過ぎなかったことを示すように多くは道内からの入植であった。
新光地区は、野津幌川水源の沢が入り込んだ起伏のある地形に農耕には極めて悪条件ではあったが、馬鈴薯を主体に大根・キャベツにレタスや人参を生産、札幌市内に出荷していたと云う。1960年代には花卉栽培に転換して成功したと「風雪百年」にある。

市道大曲椴山線が「農場橋」で千歳新線を越えるあたり、苗穂方のR=800曲線を旋回する8002列車。
画角は数度の既出なこと、ご容赦いただく他無い。北広島ないし上野幌駅前からのバスを椴山停留所に降りて、農場橋までは本当に幾度も通ったのである。手稲在住の古には、親父との日曜ドライブで馬鈴薯農場へと走った道でもあるとは、以前の記事に書いた。
千歳新線は、新光部落の南端に用地を求めて建設された。この画角の位置もそれに当たる。
そればかりが事由では無いだろうが、農地を削られた新光集落は1980年代までにはほぼ全戸が離農、一部で耕作の続けられるものの、現在では開墾地の多くが転用ないし耕作を放棄されたまま野に還りつつある。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/320sec@f3.2  C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by LightroomCC on Mac.

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