"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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豊浦 (室蘭本線) 2002

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以前にもここで触れたと覚えている。クロソイのことである。
北関東から北海道小樽に移り住んだ家族が、そこで出会った北の魚のひとつがそれであった。本人は幼少の時分のことゆえ、以下は全て後年の母からの聞き書である。
小樽駅に立ち昇る蒸機の煙を望む坂道の借家に落ち着いて早々に、ご近所から「煮付けにせよ」と頂いたのが最初らしい。些かスパルタンな背ビレ・胸ビレの魚体に慄きつつも調理してみれば上品な白身魚で、買い物に出た市場では、海水の滲みた魚箱に数尾がまとめて安価に売られ、そこでの惣菜魚と知る。事実、煮付けに限らず焼いても美味しく、加えてアラからは良い汁が出て、捨てるところが無かったと云う。
調べてみれば、このカサゴやメバルの仲間は北関東から三陸への太平洋岸も生息域としているから、那珂湊や平潟などの漁港にも水揚げは在ったと思うのだが、漁獲が極めて少なかったか、その姿が市場に嫌われて商業魚に成りえなかったのかも知れない。ともかく、この時代にクロソイは北海道の大衆魚であった。手稲町に転居してからも食卓には随分と上って、その魚体は目に焼き付いていた。

道内を去ってしまえば出会うことも無くなっていたクロソイへの再会は、1980年代半ばのこと、やはり道内の函館であった。連絡船深夜便までの時間つぶしに暖簾をくぐった、大門仲通あたりと記憶する横丁の呑み屋である。割烹着の女将から「珍しいっしょ」と供された「曹以のルイベ」は実に美味く、その夜はそればかりを肴に酒を舐めることになった。
帰京してからも、刺身で食らうソイが忘れられず近所の魚屋に相談すると、この当時でも築地市場までなら固定顧客向けに少量が活けで入荷していることが分かり、横浜市場経由で引いてくれた。この魚を不知だった当の魚屋も、試しに取引のある居酒屋に卸してみれば評判に気を良くしていた。美味いものは知れ渡るのが早いのか、1990年代初頭には道内産が安定して入荷するようになり、それには三陸地域からの養殖モノも加わるのだった。ただし、値段はやや高めで、道内の惣菜魚もここでは高級魚の扱いである。旬のはっきりしない魚なのだけれど、やはり冬を美しとしたい。

ソイの語源が「いそいお」(磯魚)の転訛と言われているように、それは岩礁域を住処とする。勿論噴火湾にも生息しているのだけれど、胆振管内でも太平洋岸の苫小牧漁協やいぶり中央漁協(登別)、室蘭漁協が知事免許による第2種共同漁業権に「あいなめ・かじか・めばる・そい刺し網」漁が含まれるに対して、噴火湾岸のいぶり噴火湾漁協のそれでは「あいなめ・かじか ・ほっけ刺し網」とあり、メバル・ソイが落ちている。つまり漁獲対象とされていないのである。湾内には岩礁域の少ないものか、生息固体数に差があるのだろうか。
けれど、おかげで噴火湾のクロソイは釣り魚である。磯に寄って来る夏場には「おかっぱり」でも30センチ級が釣れるらしいが、やはりシーズンは冬、噴火湾に乗り出す釣り船からなら60センチクラスが揚がる。刺身はこれくらいが旨い。

噴火湾を背景に貫気別川橋梁を挟む反向曲線区間を往くのは、8005列車<北斗星81号>。定期2往復よりB寝台車が2両少ない10両が基本編成だった。
豊浦定番の画角は幾度もの既出をお詫びする。
麓の畑作地からが精一杯だった俯瞰が、それに続く斜面の一斉伐採により一気に高度を稼げるようになった頃である。この日は橋梁を浅い角度に見る位置まで上っている。並行する道路を画角から外すためなのだが、今にみればここでの俯瞰には些か高度を稼ぎ過ぎと感ずる。
さっぽろ雪まつりの頃と云えば、豊浦沖の噴火湾は大物クロソイの釣果が期待出来るシーズンなのだが、そこへの釣り船は豊浦港にはおらず虻田港や八雲港から出港する。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6+2/3  C-PLfilter  Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push]  Edit by PhotoshopCC on Mac.

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別当賀 (根室本線) 1972

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道内で幼少から少年期を過ごしたけれど、両親は茨城県水戸市の出身で、ご先祖は水戸藩士に行き着くらしい。
なので、水戸藩が、その太政官布告からまもない1869年8月から北海道の分領支配に参加し、天塩国北部と利尻島の割譲を受けたことくらいは承知していたけれど、そこから彼方東の根室国花咲郡での山林所有は寡聞にして不知であった。先住民にペトゥッカ(pet-utka)と呼ばれた地域の原生林である。
この取得が分領支配を出願した水戸徳川家11代当主、徳川昭武の時代の『地所規則・北海道土地貸規則』によるものか、1884年の華族令にて爵位を与えられた12代篤敬が『北海道土地払下規則』ないし『国有未開地処分法』を根拠に、その地位を以って成したものか、歴史の門外漢が覗いた程度には知りえなかった。おそらくは後者、これらの法令が北海道に特有の不在大土地所有制を誘導したように投機目的と見るのが順当なのだろうが、篤敬の次男、宗敬が後に東京帝国大学農学部林学科に進んだことを思えば、昭武の代から本気で将来の山林経営を考えていたのかも知れない。
しかしながら、宗敬進学の10年ほど前、1907年に水戸徳川家はそれを手放してしまう。売却先は、同年に秋田県能代(当時に山本郡能代港町)の製材会社3社が合同した秋田木材株式会社であった。これは当時の木材需要に成長した内地資本の道内進出に違い無いが、会社を率いた井坂直幹(なおもと)は、旧水戸藩士の子であり、大倉喜八郎の日本土木会社(大倉組)を経て能代にて造材会社を起こした人物であった。この売買が水戸徳川家側の事情によるものか、井坂の要請の結果なのか、経緯を研究者はとっくにご存知なのだろうが、いずれにせよ彼の推進した能代の製材会社3社の合併は北海道進出を見据えてのことであり興味深い。

秋田木材によるペトゥッカに当て字した別当賀における事業は、周辺山林からの造材に始まり、乾燥を経ての本格製材は1910年頃からと思われる。製品は建材としての各種板材はもちろんのこと、当時に需要の高かった木箱にも加工されて遠く朝鮮や満州へも運ばれたと云う。これにて、原生林中には100戸ほどの従業員住戸のほか、雑貨店や理髪店、料理屋も呼び込んだ集落の出現するに及んだと記録にある。
1920年11月20日には厚床から西和田へと釧路本線(当時)が延伸され、別当賀停車場が開かれるのも、この集落経済力ゆえであり、製品の輸送路を得たと云うに、肝心の秋田木材は1915年までに標津の忠類村に工場を移転し、この地を去ってしまう。細い水流しか認められぬ地では奥地からの運搬手段に事欠き、周囲での資源が早くも枯渇したと云うことなのだろうか。
山林は、苫小牧を足場に道内事業を拡大していた王子製紙(初代)に受け継がれ、現在は十条製紙を経た日本製紙の社有林となっている。

別当賀構内へと進入するのは444列車、釧路行き。
せっかくの蒸機旅客を写真には面白くも無い駅スナップとしているのは、道東太平洋岸特有の移流霧に拠る。前に車窓に見かけた落石との間の浸食崖上区間(後年に高名となる位置である)へ歩くつもりで、地形図上に細道の繋がっていた別当賀に降りたものの、深い霧の晴れるのを待機する間に到達タイミングを失ったのだった。
最近になって、同区間での蒸機写真をWeb上に見つけ、やはり撮ったヒトはいたのだと思えば、すぐに再訪しなかったのが悔やまれる。この頃には多くの地点を目指すだけで精一杯だったのである。

秋田木材は別当賀での操業中に、根室市街地での電燈事業など、同地域で幾つかの事業を起こし、それは工場を移転してからも続けられた。そこでは「あきもく」の通称で親しまれ、今でもその名を懐かしむ人の多いと聞き及ぶ。

[Data] NikonFphotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f4 L37filter unknown film Edit by PhtoshopCC on Mac.

新狩勝信号場-広内信号場 (根室本線) 1977

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鉄道の趣味者であればご承知と思うが、客車の運用は、日本国有鉄道発足からその末期までを通じて、運用を担う鉄道管理局単位に設定され、運用番号もそれを示す略号を冠しての付番であリ、運用区所単位とされた動力車や自走車両とは大きく異なっていた。
60年代後半の例で、札幌客貨車区による<まりも>運用だった[札1]運用の「札」は札幌鉄道管理局を、函館運転所持ち<ていね>運用の[函1]運用の「函」は青函船舶鉄道管理局を示し、決して運用区所名の略号では無かったのである。対して、動力車は車両運用のA運用と乗務員のB運用に分けられ、<ていね>を牽いた小樽築港機関区のC62なら同区の[A21]仕業、「築港21番」などと通称された。
資料を遡れば、内閣鐵道院の地方機関として置かれた鉄道管理局(鉄道省昇格後なら鉄道局)単位に客車運用を設定したものが、それまでの運輸事務所を改組した戦後の国鉄における鉄道管理局に引継がれたものと知れる。
鉄道創成期からの旅客車である客車が、しばらくは唯一の現業機関であった駅により運用された名残であり、鉄道管理局(鉄道局)に配属され、常備駅を指定の上でそこに配置して運用に供し、保守・管理責任を負わせる考え方が取られたのである。これは常備先が客車区なる専門機関に独立しても変わらなかった。国鉄では、これを客車の「配属制」とし、対して一部を除き常備駅を指定しない貨車は「共通制」であった。動力車と云えば機関車しか無かった時代の制度が、国有鉄道の消滅と云う近年まで続いていたことになる。
そして、それは(動力を持たない)客車がゆえに常備区所を出区してから帰区するまでを1運用と数える、これも鉄道創業以来の慣例に従っていた。これについては 植苗 (千歳線) 1991 に書いている。
管理局単位であるから、同管轄に運用区所が複数あれば付番の番台で区別された。近年道内の例なら札幌運転区の0番台に、岩見沢客貨車区の30番台のごとくである。よって、運用番の1番に始まる一桁番号とは、その管内での代表区所の代表運用に付与されるものだった。
ならば、その管理局が特急運用を持っていれば付与されそうなものだが、不思議なことにその事例は稀であり、大抵は急行列車運用への付番であった。寝台特急全盛期の大阪局を例にとると、それらは全て100番台・200番台付番とされ、[大1]運用とは東京-大阪間<銀河>運用に与えられていた。これも、優等列車と云えば急行列車を指していた国鉄の慣例からであろうか。そこでの特急列車とは、特別な急行、即ち「最」優等列車とされていたのである。

冬晴れの狩勝新線を下って往くのは、滝川から釧路まで日中の9時間近くを通していた425列車。
高度の低い太陽が新得市街からオメガカーブの通称南山までを見通す景観に陰影を与えてくれる。
1970年代当時、釧路鉄道管理局管内で客車は、釧路客貨車区、帯広運転区に同池田支区の各区所に配置があったけれど、定期運用を持つのは釧路区だけになっていたので、必然的に同区が[釧1]を運用していたのだが、急行運用を持たないがゆえにス級客車-3両組成の2組による滝川-釧路間425・422列車運用がそれであった。札幌運転区による小樽-釧路間423・424列車(後に<からまつ>と愛称付与)が存在したにせよ、昼行で滝川釧路間を通すのは、郵便荷物輸送の使命も担った根室本線の基幹列車に違いなく、運用番の1番には相応しい。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/500sec.@f5.6 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

端野 (石北本線) 1973

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1973年の秋の渡道で端野に降り立った経緯は前の記事に書いた。40年も前の旅の記憶は失われつつあるけれど、当日ですらはっきりしない運行予定には振り回され、情報の収集に鉄道電話を随分と掛けさせてもらったものだった。
端野で捉えた522列車も前夜の網走駅への問い合わせでは、網走-北見間運休との報が、517列車・夜行<大雪>で到着した早朝の北見駅に拠れば、乗務員の手配が付いたゆえに急遽運行が決まったとのことだった。かと云えば、運行と聞いて釧網線の緑で待っていた列車がいつになっても来ないので駅に戻ってみれば、斜里からの乗務員が結局確保できずに同駅で打ち切りと云うような破目に会いもした。蒸機末期のこの時期に渡道していた諸兄も多いはずで、同じようなご経験をされたものと思う。
携帯端末でのリアルタイムの情報収集など考えられもしないこの当時、遠い駅間まで歩くリスクには駅近辺や駅撮りばかりがネガに残る旅になった。

始めて降りるところの端野は、上り本線と下り本線とその外側に副本線(待避線)を有する教科書的配線で、駅本屋に接する上り乗降場には下り乗降場が島式であった。貨物施設は駅本屋上り方に隣接して上り本線から貨物積卸線1線が分岐、副本線からも油槽所と農業倉庫へと側線が分かれていた。この時、どの積卸線は疎か副本線も貨車で満線だったのは、貨物列車の運休にともなう滞留車の疎開だったろう。
前の記事に書き漏らした肝心の駅本屋は、1933年改築と記録される2代目本屋であり、その際のスナップから読み取れば、鉄道省工務局による「小停車場標準図」(1930年10月6日工達第875号)の五號型に準拠したと思われる規模に見え、1935年の「建設線建物設置基準」(1935年10月29日建工達第1282号)に当てはめれば1日あたり600人を越える利用を想定していたことになる。1930年の端野村は戸数1042戸に人口6430人と記録されており、鉄道がほぼ唯一の交通機関と考えれば、なるほど想定に近い需要は存在したのであろう。1975年でも1415戸・5568人を擁した端野町だが、道路交通への需要流失には勿論過剰な設備となっていた。
旅客に貨物を扱い、運転も担う当たり前の一般駅の、その広い待合室に弘済会の売店が所在したかには記憶が定かで無い。

調べてみての新たな発見は、調合漆喰の商品化に1920年代半ばを境に事例のなくなっていた木造総板張りの質素な駅舎が1933年に建てられていた事実であった。物資不足に陥った戦時下に幾つかの例は存在するのだが、それらを除けば道内最新の板張り駅舎であったろう。満州事変が勃発し、戦争へと傾斜する時代、それが建築費削減の事由だろうか。最新とは云え、築58年を迎えた1991年に端野町の公共施設との合築駅舎に建て替えられて消滅した。

写真は、端野を出発して往く522列車。
この当時には旭川で832列車と列番を変えながらも網走から小樽まで、日中の13時間を通す列車であった。北見まで標準勾配の6.8パーミルには発車から基本的に力行が続く。
前の記事に掲げたカットの前コマである。

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto  Nikkor50mm/F2  1/250sec@f5.6 Y52filter  Tri-X(ISO400) Edit by LightroomCC on Mac.

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