"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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細岡 (釧網本線) 1985

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蒸機の末期から飽きるほど通った釧網本線なのに、細々と残っていた中斜里着発の貨物列車が1996年に廃止されてからと云うもの、一度も撮っていない。1984年2月改正では混合列車(実質には客車列車だったけれど)が無くなり、86年11月改正で貨物の大半に優等列車まで喪失しては、前述の中斜里貨物を思い出したように撮るだけになっていたのだが、それすら失われての単行気動車ばかりには、あの沿線風景と云えども食指が動かないのである。
けれど、単なる旅行者としてならその後も幾度か全線を乗り通している。かつてに自分が立った位置を確認しながらの旅は、この四半世紀を越える歳月を感じさせる車窓でもあった。
降りる気にはなれない北浜の喧噪ぶりは論外として、沿線は極度に過疎が進行しているはずなのに網走近郊や斜里原野区間では建造物を煩わしく感ずるし、河川敷に樹木が大きく成長した猿間川橋梁では海別岳を背景に編成列車を捉えるのは既に困難だろう。
けれど、変容の著しいのは標茶から先、釧路湿原の区間と見える。一言で云えばハンノキの群落が増えた。釧路川へと流れ込む細い川筋はヤチダモが教えてくれるし、加えてはカエデやらヤナギの灌木だろうか。その樹林帯の確実な進出に、ヨシやスゲにコケ類の高層湿原群落の面積縮小が素人目にも見て取れる。これらは土砂堆積とそれにともなう乾燥化傾向を明らかに示していよう。

陸化型の湿原は、低層から中間、高層へと推移して、やがては陸地と化する。縄文海退による潟湖に発する釧路湿原は、まさに植生学の教科書どおりの「湿性遷移系列」の途上にあるには違いない。けれど、数千年を経ての泥炭の堆積により形成された湿原である。前に 植苗 (千歳線) 1970 で勇払原野のウトナイ湖周辺湿地についても書いたけれど、現在に我々はその何千年目かに訪れる陸化への最終遷移に偶然にも立ち会っている訳では無い。この50年にも満たぬ期間での景観の変容は人為的結果と云わざるを得ない。
それは、19世紀末期以来の湿原を囲む丘陵地の開墾にともなう土砂流失と、そこでの経済活動にて生じた栄養塩類の涵養水源への流入がもたらしたとされている。戦後に至っての湿原内河川河道の直線化では氾濫原が失われ、結果的に増した土砂流送量に堆積は進み、湿原内にも及んだ農地化が拍車を掛けたと云えそうだ。
薄暮の車窓など特に、かつても現在もただ茫漠たる湿原風景の過ぎ行くに見えるけれど、その景観は様変わりしたとして過言でない。

幾度も通った細岡の遠矢方、中丿沢川出口の陥入部をR=362M曲線の築堤で渡って往くのは3692列車。
此の頃には、後部の石灰石を積んだ無蓋車を中斜里で切り離しての北見行きであった。
背景の湿地を横切る中丿沢川の流路沿いには、たかだか30年を経た今にハンノキにヤチダモが密生するに至っている。土砂の堆積は、やはりこのような「入江」から進むものか、背後の丘陵地からはエゾイタヤやシナノキの樹林の進出が著しく、ヨシ原に最早湿地を湿原に足らしめる「湿原植生」の群落は存在しないだろう。
このように書いておきながらなのだが、実はここを含む達古武沼周辺地域でのハンノキ群落の面積は減少している。皮肉なことに、陸化したそこが農地へと転用され続けた結果である。
=参考資料=
釧路湿原達古武地域自然再生事業実施計画書(2005年環境省北海道環境事務所)

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1998

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再々で恐縮ながら、広島街道である。
それが野幌丘陵を超えるところの「西の里」の地名は、1935年に広島村の字名を整理改称した際、「北の里」「南の里」に「東の里」と共に新たに起こされた字名である。それは、取りも直さずに広島開墾地の1894年に成立した広島村の中心集落としての順調な拡張に、村内四方に集落をともなった農地開発の進展していたことを示している。「西の里」は、それまでの字名、野幌と下野幌を併せた地区への付名であった。

野津幌官林と呼ばれた原生林が広がっていた野幌丘陵の現西の里地域への最初の入植は、そこがまだ月寒村域に属していた1889年のことで、現在の上野幌駅近く野津幌川沿いの山根橋あたりとされている。この頃、野幌丘陵を越えて長沼低地側と札幌開拓使を結ぶ道路は1873年6月に開通した札幌本道しかなく、月寒村内は島松から輪厚・大曲の経路であったから、ここでは交通路・輸送路としての川筋が選ばれたのは当然と云えよう。
一方、1884年以来に中丿沢原野で進められた広島団体による開墾は、稲作の成功に入植者の1000人に迫ろうと云う模範的開墾地となって、これの優遇されたものか、1890年に現中の沢付近から丘陵の東西稜線に沿って直接に札幌開拓使に至る札幌道路が開削されたのだった。これが後に広島街道と呼ばれた現在の国道274号線である。
この道路は現西の里地域を横断したゆえ、そこへの入植は以降に本格化し、広島村成立後には100戸ほどの入植が進んだと「広島村史」(1960年広島村)は記述する。なるほど、「風雪百年-西の里郷土史」(2000年西の里開基百年記念事業実行委員会)に所載の1900年代初頭頃とされる開拓者分布図を眺めれば、札幌道路沿いと野津幌川の低湿地に入植者の名がずらりと並ぶのが見て取れる。
丘陵地ゆえに水利や低温、強風など営農の労苦は尽きなかったに違いないが、物流の交通路を持ち得たことで入植は促進され、広島開墾から続く定住の進んだ沿道には千歳・恵庭方面からの荷馬車も多くは札幌本道ではなく、この道路を通行したと云う。それが商店や茶屋を呼び込む好循環を生んだとも記録には読める。

だいぶ遅れて野幌丘陵を越えたのが、1926年8月21日開業と記録される北海道鉄道(2代)の札幌線であった。広島開墾地への人口集積に、此の鉄道は島松から北上してそこに北広島停車場を開き、左転してまもなくに野幌丘陵に取り付くのだが、札幌道路とともに急坂を上る訳には往かず、その南方で丘陵南北稜線の鞍部を隧道を掘削すること無く越え野津幌川左岸を下る経路を選んでいた。道路沿いに開墾が進んでいたとは云え、その背後にはまだまだ原生林が続いていたから、それを切り開いての建設であった。西の里の開墾区域と標高差30メートル程の原生林内の通過にはそこに停車場を持つことは無く、以来国有鉄道千歳線を経ての現在まで西の里は鉄道の通過しながら、それとは無縁の地区である。
早くに開通した道路により成長して来た地域なのだが、札幌圏の拡張にともなう農地を転用しての宅地化は、1973年に上野幌停車場の移転した札幌市厚別区側に見られる程度であり、それも1990年代に至ってようやくのことであった。せっかくに設置しながら遊休化している西の里信号場は存在するものの、周辺に開発用地を持つでもない北海道旅客鉄道にこれを旅客駅化するインセンティブは働きそうに無い。

千歳新線が切通しで通過する施工基面高63M00の最高点をR=1000M曲線で左転して往く8001列車。新緑が照り返す。
画角としての既出はご容赦願いたい。此処では、電車線の被らぬ位置まで切通しを降りるのを定番にしていた。
10パーミル勾配を力行してきた2台の機関車は農場橋の真下でノッチオフする。電車列車に互するとまでは云い難いが、それに追い着かれまいとする走りだった。
ところで、近年この位置に「西の里」と進行方向の信号場名を記した標識が建植された。実を云うと、これが何と呼ばれる標識なのか旧い鉄道屋は知らない。停車場接近標識なら橙黄色の矩形板に対角線方向の黒色線のはずで、何より場内信号機の設置されない停車場への標識である。けれど、同停車場場内信号機から外方600メートル位置は代用閉塞施行に備えての設備とも推定され、ならばこれも停車場接近標識として良いのだろうか。正解をご存知の識者のおられれば教えを請いたい。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@f4 PLfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.

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