"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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倶知安 (函館本線) 1982

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そこには18時05分が定刻の倶知安発車に夕刻が近づけば三々五々写真屋達が集まり始めるのだった。勿論、C11の逆向き運転の観光列車でもC62が短い編成を牽いた展示運転でも無く、それの重連が本州連絡急行<ニセコ>の仕業に就いていた頃の北四線踏切の話しである。
集合と云っても、せいぜい10人を超える程度は近年の狂乱の比では無かったものの、定番の画角を得られる位置は限られて、皆が踏切取付道の盛土中程で団子のようになって撮っていたものだった。なので、この画角を一度押さえてしまえば他の位置を選びたいところではあったけれど、前に出る訳には往かずに些かもどかしかったのである。
それの叶うのは、71年9月にC62が三重連運転などと云う愚挙の果てに走り去り、さらに2年を経て山線蒸機が終焉を迎え、そこが静寂を取り戻してからのことだった。

もともとに蒸機は身近に過ぎて、近代車両に惹かれていたくらいだったのでその喪失感は薄弱で、寧ろひとりきりで自由に画角を選べるのが喜ばしく、幾度かそこに立ったのだった。<ニセコ>はメインの被写体に変わりはなかったものの、優等列車の風格が失われつつあった時代に、客車急行の重連牽引であることとスロ62組成を除けば遠目には普通列車と大差の無い姿に次第に飽きてしまい、忘れた撮影地にはなっていた。
その復活は、ここでも編成の14形座席車系列への置替である。特急寝台の設定が無かった道内で機関車次位に深い丸屋根こそ続かぬにせよ、それを彷彿とさせる姿は十分に魅力的だったのである。1972年製の新系列客車には旧型客車編成の重厚さの失われたとの評も聞いたが、こと<ニセコ>に関しては列車に風格を与えたと思える。比すべき列車の無かった道内で気動車特急に匹敵する設備を得、加えて重連の機関車の牽引が寄与したと云うべきか。

この頃、無人となった農家の残されたここの農地には毎年に麦が育てられていた。馬鈴薯の輪作作物とは知っても、どちらがどちらのための地力回復作物なのかは知識のないのだけれど、完全な輪作では無かったように覚えている。
真狩山を背に峠へと向かう101列車<ニセコ>は定番の画角ではあるが、真狩山に架かる雲に麦の植列を意識したタテ使いにはだいぶ踏切寄りに立っている。
小麦は秋蒔きで、後ひと月程にてそれこそ小麦色に染まり収穫を迎える。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/f1.8S 1/250sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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国縫 (函館本線) 1984

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山越郡長万部町国縫地内の国道5号線には、国縫停車場への進路を示す道路標識は見当たらない。設置が通例とばかり信じて来た旧い鉄道屋には、これも鉄道の地位低下を示す事象のひとつに見える。
停車場は函館バス長万部方面行き停留所に隣接の細道突き当たりに所在し、国道からも本屋の一部を認めるのだけれど、案内の無ければそれとは知れないだろう。もっともその位置なら地元の利用者は皆承知しているし、国道を通過する外来者には元来無縁の施設に違いないにしても、駅が街なり集落なりの生活の拠点と認識されなくなった何より証である。経済中心の無い集落は輪郭もまたぼやけて見える。

かつての国縫停車場は瀬棚線を介しての日本海岸との輸送の結節点であり、その貨車操配に相応しい構内規模を持っていた。加えては、隣接した合板工場への原木の到着に製品出荷を扱う専用線も稼働して、側線には多くの貨車が見られたものだった。函館海線では貨物拠点のひとつだったとして良い。
合板工場の北海ベニヤ株式会社国縫工場としての操業開始は、瀬棚線が瀬棚までの全通を果たした2年後の1934年と記録されており、それの沿線資源も期待したものであったろう。海外からの金属原料輸入が途絶えた戦時下には木製航空機の資材生産工場に指定されたと云う。戦後には幾度かの変転を経て、瀬棚線撮影にここへ降りるようになった1970年代前半には札幌の合板会社北晴合板の国縫工場となっていた。
当時のダイヤには、五稜郭操車場-長万部間の区間列車だった1191・1190列車の1往復のみが停車して貨車の集配を行っていたと見て取れる。瀬棚線内発着貨車の授受も担っただろうが、それには当該貨車は半日程の滞留を要することになって構内に車票の差された中継車の多かったのも頷ける。

現在も残される駅本屋は1939年に改築の三代目となり、大きく取られた待合室に駅長事務室は瀬棚線接続で増大した旅客や構内作業の人員の収容からと思われ、調べ得なかったが跨線橋の設置もその際だったと推定される。駅員の詰めていた当時には集落規模に不釣り合いな堂々の規模と見え、今は元商店の2軒が残るだけの駅前も、それに隣接して商人宿の二階屋が駅舎と相対し、さらに商店が続いていたと覚えている。深い草叢と化している北側一帯には集落人口の多くを占めたであろう鉄道職員の官舎が建ち並び、確かに集落経済の中心を成していたのだった。

写真は瀬棚線蒸機から10年後に再訪した国縫停車場。今は取り払われてしまった第二乗降場上屋が、真夏の白い光線にくっきりと影を落としていた。
2番線には森から長万部への643Dが停車中。1番線に到着したのは瀬棚線への927Dである。本来なら3番線着発のはずだが、この日は大幅遅延と思われる貨物列車が入線していたゆえの変更であろう。発車して往くそれの後ろ姿も画角にある。
北晴合板は1981年11月28日に44億円の負債を抱えて札幌地裁に和議を申請、30日に財産保全命令を受けて事実上に倒産し、国縫工場も操業を停止した。この1984年には瀬棚線からの貨物出荷も既に無く、側線だけが空疎に残されていた。画角のコンテナ車は、それを利用した夏期遊休車の疎開留置だったと思う。
けれど、駅長事務室には当然に職員が詰め、待合室にはキオスク売店も健在だった頃ではある。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with adaptor 1/500@f5.6 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

上野幌 (千歳線) 1996

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手稲に暮らした頃、広島街道は親父の運転する大衆車パブリカでの日曜ドライヴのルートだった。なので、野幌丘陵を越えるところの広島村西ノ里椴山(とどやま)の地名は承知していた。既に農地の開かれていたとは云え、種畜牧場が目印だった現在の西の里交差点を右に折れて馬鈴薯農場を目指せば背の高いトドマツの連なる原生林も残されて、なるほど椴山の所以と納得したものだった。後に、道内には幾つかの椴山地名が存在すると知るが、いずれもトドマツがその由来である。よって、これは和名には違いない。
以来に「椴」はトドマツの椴と理解していたのだけれど、ずっと後になって仕事でご一緒した「もみやま」さんの名刺には、確かに「椴山」と在って「樅山」のミスプリントではないのかと他人事ながら悩んだことがある。どうやら、名字としての「もみやま」には、その双方が存在するらしいと知った切っ掛けであった。そして、今のところ椴山と書く「とどやま」さんには出会っていない。これは地名だけのこと、しかも道内に限られるようだ。

モミ、樅の木と云えばクリスマスツリーを想起しようが、マツ科モミ属に属するこの樹木の国内における自生地域は秋田県を北限に屋久島にまで至り、照葉樹林帯にて広葉樹と共に森林を形成するなど決して北方の植生とは云えない。モミの密生する斜面、即ち樅山は本州から九州に至るまで随所に存在したのである。
対してのトドマツはマツ科の樹木には違いないが、マツ属では無くこれもモミ属に分類され、北海道以北にしか自生していない(太古の昔には奥羽地域にも自生の痕跡がある)。トドマツの名は先住民族によるトトロップに由来し、トトだけを頂いて枝が一段ずつ輪生する特性から、木に段を当てて「トト(トド)」と読ませたものらしい。「マツ」は葉形が日本人に親しい松の木に近似したところからであろう。椴松も椴山も和人がアイヌモシリに進出して以降の近世の発生には違いない。
解らぬのは、それがどうして「もみやま」と読む名字に転化したか、である。勿論、それには樅山と書く事例も存在する。先の椴山さんは愛知県の生まれで、一族に北海道居住経験者は居ないと云っていた。これが氏や姓のはずは無いから、ついぞ近代の『平民苗字必称義務令』(1875年2月13日太政官布告第22号)による名乗り姓、所謂明治新姓である。これだけ全国に広まるには、その近辺で椴=モミの木とする一大プロモウション、あるいは正反対の大誤解が在ったと思うのだが、どなたかご存知あるまいか。

北広島市道椴山大曲線の農場橋(繰返すけれど決して「農事橋」では無い)の架かる椴山の切通し区間には、本当に幾度も通った。上りの本州連絡特急寝台列車を押さえるならば日没の制約があったから尚更である。上野幌方のR=800M曲線を見通せば、陽の高い季節なら2や6004、秋から春先なら8002が斜め後方からの低い斜光線を旋回した。
編成を架線柱の間に収められたこの唯一無二、ピンポイントのカメラ位置には、手前の樹木が成長して立てなくなってしまった。それをクリアしようと法面の高度を上げると、今度は架線が被って邪魔をする。
幸に3月までなら葉も落ちていよう。新参の俄鉄道写真愛好家諸氏には努努、無断で伐採などお考え召されるな。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500@f8  Fuji SC40M filter KR Edit by LightroomCC on Mac.

猿払 (天北線) 1985

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天北線(当時の北見線)への気動車運行は1955年12月1日に音威子府-稚内間の混合列車1往復を置替えたのが始まりである。その秋に稚内機関区へも投入されたキハ48000(称号改正後のキハ11)が運用された。そして、年の明けた1956年2月26日には、それの増備とキハ10000(称号改正でキハ01)の配置を受けて、早くも貨客分離が実現していた。列車本数の少なさもあろうが、これは宗谷本線の名寄-稚内間に先駆けてのことだった。
この際に、混合列車から貨車を引継いだ蒸機の牽く貨物列車が幾本設定されたものかは解らぬが、手元に資料の残る1963年10月改正ダイヤには790から793列車の4本に、音威子府-浜頓別間の区間列車2本の計3往復が見て取れる。全線を通す4本は全て昼間の運転であり、この頃に小石-曲淵間の峠に立てば、その全てを異なる光線下で撮れたことになる。これの削減は1968年10月改正であり、沿線物流の道路輸送への移行は早い時期から始まっていたのだろう。
道北へと遠征を始めた頃の浜頓別以北での1往復運行は、貨物の3往復に加えてC55の旅客列車まで撮れた宗谷線に比すれば効率の悪いのは明らかであり、実は一度も撮っていない。蒸機の無くなってからも興浜北線へは通ったのに、天北線はキハ22の2両組成を恵北の丘から幕別原野に望む程度でお茶を濁していた。

そこへもたらされた1985年3月改正からの昼行客車急行の運転、<天北>の客車化のニュースは青天の霹靂として良かった。1972年の<白山>の電車化、特急格上げ以来に白昼を堂々と駆け抜ける客車による優等列車は新潟以北の<きたぐに>に、函館山線を重連の機関車で越えた<ニセコ>だけであり、それが<宗谷>と合わせ2往復も追加設定されるなど夢にも思わなかったから、鉄道雑誌に見つけた速報に機関車屋は驚喜したものだった。しかも、<天北>は優等列車牽引なら1968年10月改正での米原-田村間<日本海>以来のDE10が登壇と相成った。
かくして始まった天北線通いは、ポイントの探索からとなり、音威子府の北で天北峠を越えての頓別川流域よりも浜頓別から先のクッチャロ湖をはじめとする海跡湖が点在し沿岸湿原の続く猿払原野区間に惹かれ、中でもポロ沼を茫漠と遠望した情景が、世話になったそこの牧場主一家と共に印象に残っている。

写真は夏の日の猿払駅本屋。
それにしても旅心は無いのだな、と熟熟に思う。
鉄道の旅はそれはそれは随分としたのだけれど、車窓を肴に酒を舐めるのは旅情とは云わぬだろうし、写真を撮りに往く旅ならコンテの検討が先に立っていたし、仕事の移動に乗るならば着いてからの手順が気になった。鉄道屋だから汽車に乗ることこそ旅だと偏った理解はすれど、それを写真にするなぞ思いもしなかったのである。撮り切れずに断念した話しは 奥白滝-上白滝 (石北本線) 1977 にも書いた。
これも光線が気になったのが先行して、せいぜいに上りの到着に忙しい駅員氏を待合室越しに抜いた程度である。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/250sec@f5.6 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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