"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

長万部 (室蘭本線) 1995

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写万部山の南斜面を水源にオタモイ山を巻くように流れて噴火湾に注ぐ小河川がオタモイ川である。現在、旧旭浜信号場の先で線路と直行するそれは、両岸ばかりか川底もコンクリートで固められた直線の水路そのものに見える。
それもそのはずで、オタモイ川は1950年代に進められた静狩原野の農地化、即ち泥炭地の乾燥化に際して右オタモイ川や左オタモイ川にナイベコシナイ川などの支川と共に排水路に用いられ、開発道路に併行した上記の区間はその際に掘削された放水路なのである。
かつての静狩原野とは長万部川から静狩川まで沿岸に10キロあまりに続く、総面積の600から800ヘクタールと云われる高層湿原であった。このあたり、静狩 (室蘭本線) 2010 に書いている。
ここへ流れ出たオタモイ川は蛇行しつつ海岸線を目指すものの、そこの砂丘に阻まれて旧旭浜信号場裏手から現在の10号農道付近まで2キロほどの長さに沼地を形成した上で、これも煩雑な蛇行を繰りながら西流し、やがては長万部川の河口付近まで達していたのだった。

そして、1923年12月10日に長万部から静狩までを開通した長輪線は、起点2キロから3キロ間の反向曲線の途中でオタモイ川に架橋していた。先の記事で、この反向曲線を「湿原を避けて海岸寄りに進路を遷移するための線形」と書いたが、正しくは静狩側から湿原の只中を回避し海岸寄りを進んだ線路が、オタモイ川の流路に往くてを阻まれ、これを渡河するために選ばれた線形とすべきだろう。
室蘭本線と改められ複線化された現在にも残る線形であり、この付近も泥炭地の農地化は進んだのけれど橋梁前後の流路だけは手つかずで残されている。静狩湿原の太古の姿は、中心部の6ヘクタール程度を残すのみとされているけれど、これも加えて良さそうに見える。湿原水位の低下に狭められたとは云え、低湿地に蛇行を繰返す原始河川の姿である。

この反向曲線を通過する本州からの下り寝台特急群に対し、3月と10月半ばの数日間だけ最良の光線が得られたとは以前の記事 長万部 (室蘭本線) 2003 に書いた。
10月の半ばと云うのは道南地域の紅葉黄葉には少しばかり早く、かといって常紋の峠あたりは盛を過ぎる中途半端な時期ゆえ、ここでの渡道は結局、長万部への連泊となっていた。それでもコンテに描いたような光線に出会えたのは数える程も無かった。
写真は、この情景をポジで撮り始めた頃の習作。日出方位が100度を越える10月21日はタイミングとしては、やはり少しばかり遅いのである。それとカメラ位置が高過ぎて、同じく光線を受ける通信線柱が目立ってしまった。列車は6時37分の通過だった6003列車<北斗星3号>。
試用してみたPanther100(PRP)は、FujiのVelviaに対抗したフィルムだけあって、こんな光線に使うと色乗りが執拗に過ぎた。

さて、ここに残されたオタモイ川旧流路が現在に何と呼ばれるものか。長万部川放水路建設にて分断され、しかもそこで水門にて仕切られてしまった、か細い水流には北海道開発局の資料に準用河川としての記載も無かった。長万部川水系にも現オタモイ川水系にも属さぬそれは、おそらくは河川に扱われていないのだろう。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@8 NON filter PRP Edit by PhotoshopCC on Mac.

奥白滝-上白滝 (石北本線) 1977

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道内の車両が寒地向け仕様を要するように、それを撮る鉄道屋も耐寒耐雪の装備は必須である。
道内在住の頃、近所の線路端に立つのは日常生活の延長のままの姿だったけれど、山線などに遠征するようになればそうも往かず、ごく自然にスキー遊びの装備を流用していた。と云っても、今時とは違いキルティングのズボンにセーター、中綿入のジャンパーにヤッケの出で立ちで、足元はゴム長であった。けれど、それで積雪の斜面を這いずり回れば長靴に雪の入り込むのは自明の理である。冬山装備としてのゲーター(スパッツ)など知らぬ頃で、スネ回りにタオルなど詰め込んでいたところ、現場で出会った先達が雪切りの付いた長靴を履いているのを見つけた。恐る恐る尋ねれば会津線撮影の際に現地で入手したと聞かされ、仙台の弘進ゴム社の製品と教えてくれた。さすが内地の雪国には便利なモノの在ったものと、早速に親に強請り、狸小路アーケイド街に在った若井靴店で取り寄せてもらったのだった。
それは厚手のゴムの使われた頑丈な造りにウールの内張りも付いて、かなり値の張ったと覚えているが、雪侵入の悩みからは解放されて重宝した。身体の成長と共に買替えもし、札幌を離れるまで足元は長靴だったと記憶する。

けれど、都内から遠征するようになると、郊外私鉄や山手線でその出立ちは余りに素晴らしく(相変わらずのジャンパー・ヤッケのせいもある)、神田の小さな山・スキー用品店で見つけ購入したのが、世界的なバックパッキング活動の普及にて日本へも輸入され始めて居たカナダ-ソレル社のアークティックブーツだった。現在には良く知られており説明も不要だろうが、当時なら取り寄せたメイルオーダーカタログに眺めていたLLビーン社のメインハンティングブーツの積雪地版と云った印象で、長靴には違いないながらアッパーの鞣し革製は洒落ており、フェルト製のボアも付いたインナーシューズはなるほどに極寒地仕様だった。
おそらくは並行輸入と思われたそれは、学生身分には目の飛び出る程の価格で、懇意にしていた店主が「見栄で仕入れたものの、まさか売れるとは思わなかった」と宣うたのを覚えている。国内でバックパッキングの入門書などが出版される数年前のことである。

雪切りこそ附属しないこれには、深雪ならロングスパッツを装着すれば良く、暖かさにも満足して数シーズンを過ごしたのだけれど、此の頃に背負って行動する機材も増えれば、雪上とは云えそれを支える足への負担が気になり始め、重さから避けていた登山靴を検討せねばならなくなった。本格的な冬山用は既に所有していたものの、それは流石にオーヴァースペックでもあり、トレッキングとマウンテニアリングの汎用タイプだった東ドイツ-マインドル社のマッターホルンを手に入れた。無雪期には暫く前から軽量のザンバラン社製フジヤマを導入しており、これで足元は季節を問わず登山靴を装備する羽目となったのだった。
皮革にSno-Sealを幾度も塗り込み(湯煎で溶かしながらの作業が懐かしい)、ウェルトスティッチも専用の接着剤でシールしたものの、本来にはスリーシーズン用なせいか、僅かながら靴底側からと思える浸水が見られたものだから、底革周囲もシールし、ヴィブラムソールに打たれた鋲の頭もゴム系接着剤で塞いだ。ソレルブーツには比するべくもない防寒性能には、靴ごと装着するオーヴァーゲイターを履いたこともあるが、肝心のキック&ステップで斜面を上れないなど行動に支障を来して一度で懲りてしまった。

上京して、雪の無い地域に育った人々が冬の汽車旅に、矢鱈とセンチメンタルな想いを抱いていると知った。当然と云えばその通りの話しなのだが、冬ともなれば白い風景ばかりで育った人間には、とても新鮮な驚きだった覚えが在る。
ならばと、冬旅を何枚かの組写真(死語?)に仕立てることを目論んだのだけれど、雪が身近だった鉄道屋には雪中を這いずり回るばかりで、そんな感性はとても持ち得ずに諦めてしまった。
写真は、雪の細道を峠へと上る522列車、札幌行き。組写真の構成カットのつもりで撮影したものの、それっきりだった。

さて、弘進ゴムの長靴もソレルのブーツもマインドルの山靴も、全て手元に残っており現役である。特にマッターホルンは旧式の山靴と成り果てたけれども、ソールを幾度も張替え、足首のカーフスキンを取替え、アイレットも幾つかを新調し、アッパーの内側のライニングも張り直すような、新たに購入するに匹敵する費用の修繕もしながら30年余りのシーズンを過ぎた。しっかりと馴染んだ足入れの良さが手放せないのである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

常紋信号場-金華 (石北本線) 1985

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鉄道屋なので道路は門外漢である。それでも徒歩のそれとしては自分の歩いた道のことは気になる。
金華の先で国道242号線から右に分岐して熊の沢川の谷を遡り、標高397メートルの峠で八重の沢川の源流に至って生田原の平和橋近くで再び合流する(ここでは国道の方が合流して来ると云うのが正しい)、つまりは石北本線と共に常紋郡境を越える細道もそのひとつである。常紋信号場から要員の引揚げられ、隧道内の照明点灯がままならなくなって以降には、生田原側との往き来に歩いた諸兄も多かろうと思う。
線路との平面交差は一箇所のみで、その踏切名称-旧北見湧別線踏切から、かつては路線名を「北見湧別線」と呼ばれていたらしいと知れる。けれど、国有鉄道による踏切付名は正規の道路線名を採用するとは限らず、その名称は、ここでの道路史には登場しない。それを勘案しても「北見」と「湧別」と云う広域地名を名乗るには、ある一定の時期に両地域を結んだ主要道だった証と受取れもする。

ムカ原野とイクタラ原野を連絡した最初の「道路」は、1891年秋には完工していたであろう北見道路(中央道路)を構成する区間とされており、これは留辺蘂から北上し現佐呂間町の共立で左折、丸山(558.3M)の斜面を標高510メートルまで上る五号峠(共立峠)を越えて下生田原に至る経路であった。北見道路は1895年3月23日の北海道庁令23号を以て仮定県道中央線に指定、基幹道路とされた。そして、1919年に五号峠の北方に標高を302メートルに下げる旭峠が開かれると、『道路法』(1919年4月10日法律第58号)に基づく1920年4月の「北海道道路令」(1919年11月25日勅令第473号)での地方費道5号旭川根室線への指定と同時に、同峠に経路が変更されていた。それは道路としての輸送力向上を意味する。
かように旧北見道路出自の道路が幹線であり続けた中で、「北見湧別線」なる経路の開通はいつのことなのだろうか。門外漢は調べ得なかったけれど、米軍が1947年に撮影した空中写真にくっきりと確認出来るところから、戦前期ではあろう。最も順当に、留辺蘂-下生田原間湧別軽便線の建設資材輸送路として開削されたものと考えるならば、鉄道開通と同時期に一般の供用を開始したものと思う。名称すら記録されていない、その常紋郡境越えの峠は五号峠に比して標高を100メートル低下させたばかりでなく、標高320メートルの丸山峠越えも不要としたから、この推定が正しいとすれば、1914年頃から旭峠開通までの5年間ほどは中央線に比して輸送の主体を担っていた可能性もあり得る。けれど、それらしきは、北海道に存在した仮定県道は勿論、その後の地方費道・準地方費道にも見当たら無い。

此の道路が記録に現れるのは、連合軍施政下の一時期に存在した「北海道2級道路15号線」としてである。新制北海道庁による1948年9月の「北海道総合開発計画書」に札幌と主要都市・重要港湾を結ぶ1級道路と、隣接支庁間の2級道路の指定があり、15号は紋別郡上湧別村を起点に遠軽町・生田原町を経て常呂郡留辺蘂町に至る路線とされていた。旧北見道路は1級道路6号(旭川市-現根室市厚床間)とあるから、これが件の「北見湧別線」に間違いあるまい。1954年3月30日には道道111号遠軽留辺蘂線に認定されている。
一方、国道39号線(旧北見道路)の留辺蘂-下生田原間の30キロばかりに旭・丸山の二つの峠の維持管理を避けるべく、ずっと時代の下った1963年に、金華から奔無加川沿いに上金華へと、上生田原からは生田原川・支線沢川の谷に伸びていた開拓道路を結んで開削されたのが金華峠(1973年に現道に改良)である。開通と同時に前後の開拓道路部分も含めて、湧別-遠軽-留辺蘂-置戸経由で網走市と帯広市を結ぶ国道242号線の構成区間となり、これが「北見湧別線」こと道道111号遠軽留辺蘂線を旧道に追いやったのだった。
道道111号遠軽留辺蘂線は1965年4月1日付にて29号遠軽上湧別線と結んで511号上湧別留辺蘂線となり、意外なことには1976年8月31日に認定解除されるまで道道であった。

石北線定期貨物運転の末期、盛夏の常紋郡境を下って往くのは1557列車。コンテナ車 7両の350t牽引には、所定の補機運用が省略されていた。
この日も早朝に金華へと降りて、かつての道道を既に無人となった常紋信号場へと歩いた。北海道らしく湿度も低く、快適なトレッキングと覚えている。
さて、旧北見湧別線の踏切名称付名は「旧」の付される以上、金華峠開通以降の比較的近年、しかも道道上湧別留辺蘂線の時代のことであろう。それが設置時に、即ち道路の開削時に何と呼ばれていたかは、終ぞ知り得なかった。それ次第では設置時期も推察可能ゆえ、鉄道省札幌鉄道局による線路略図など所蔵の方が居られれば、ぜひとも御教授を請いたいものだ。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/250sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

道路の門外漢には、大島仁氏による労作「道道資料北海道」を参照させていただいた。

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