"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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有珠-長和 (室蘭本線) 1995

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アルトリ岬は、地形図で確認し現地で眺める限りに陸繋島だろう。そして、標高27メートル余りの島の部分は7000年から8000年前と推定される、有珠成層火山の水蒸気爆発を引金にした山体崩壊にともなう岩屑なだれ、後に云う「善光寺岩屑なだれ」で運ばれた岩塊そのものである。
山体の岩盤は細かく破砕されることなく巨大な岩塊のままに崩落し、大量の土砂とともに押し流されて、その麓に幾つもの小山の連なる地形を形成した。それぞれの小山は学術的にも文字通り「流れ山」と呼ばれる。岩屑なだれは噴火湾にまで流れ込み、アルトリ岬とその先に見える岩礁も巨大岩石の一部であるから、もっとも遠くまで到達した岩塊と云えようか。ちなみに、以前にも書いたけれど、エントモ岬の成因も同様である。
その地質を調べると成層火山のどの部位を構成していた岩盤であるかが判別出来ると云うから、その方面の研究者達はとっくに承知なのだが、崩落のシミュレイションには意見の分かれるところであるらしい。

流山が幾つもの起伏を成す、この岩屑なだれによる堆積物は数十メートルの厚さにて入江川左岸から東は長流川付近にまで達しており、静狩に始まる山塊が噴火湾へと落込む急崖の区間を隧道の連続する10パーミルで上り下りしながら、ようやくに洞爺に達した室蘭本線は、この丘陵地の西崖を再び10パーミル勾配で上り、流れ山を縫ってエントモ岬へと下る線形を採っている。最近につとに高名な地点である起点45キロから46キロ付近の反向曲線を見下ろす立ち位置が流れ山そのものなことや、長和の水田地帯を俯瞰する畑作地の丘が岩屑雪崩の達した東端だと(但し、そこの急崖は長流川の浸食によるもの)、いったい如何ほどの撮影者が意識しているかは知らぬが、ここでの変化に富んだ画角やその立ち位置は、太古の有珠火山崩落の恩恵なのである。

流れ山の谷を下り海岸線へと達した列車は、8007列車<エルム>。
アルトリ岬の写り込むカットを探したのだけれど、これ以上の画角では撮っておらず、ご容赦いただきたい。海岸線を辿れば、その先がアルトリ岬である。
アルトリ(ar-utor)とは、本来にはこの海岸に対する先住民の呼称で、「向こう側」の意は現在の有珠海岸に対して岬の反対側の浜を指したものであろう。岬自体はイショキショキと呼ばれたと云うが、それは和名ではアリスイなるキツツキ科の鳥の名であり、樹木も無い(かつても無かったであろう)岬に、果たしてそれが生息していたものか。
画角右の丘陵地も岩屑なだれの到達先端ではあろうが、急崖の斜面は後の海食の結果と思う。
余談ながら、このアルトリ海岸は1988年に「恋人海岸」と命名され、その標識も建てられている。駅名まで変えてしまった三陸町の小石浜(→恋し浜)もそうだけれど、此の手の見え透いた地名変更は必ずや禍根を残す。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 FujiSC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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抜海 (宗谷本線) 1979

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天塩線の建設は宗谷線の音威子府を起点に順次北進したのだが、稚内(当時)から兜沼の区間だけは1924年6月25日に天塩北線として終点側から先行した。南線は問寒別までを開業した時点であり、工期の短縮目的には違いない。とは云え、宗谷線は1922年に稚内へと達していたから、それと連絡して道央へ、本州への輸送路が確保され、早速に勇知川流域の入植地から芋の道外出荷が記録されている。
この当時に宗谷郡域の日本海側で古くから和人の定住が進み、集落の体を為していたのは抜海くらいだったのだが、天塩線はこの海岸集落に立ち寄ること無くクトネベツ原野を経路とし、ここに設けられた停車場が直線距離で2キロばかり先の抜海を名乗ったのだった。原野を西に弧を描くような平面線形は、勇知川流域とを隔てる丘陵への取付けゆえかも知れぬが、停車場位置を少しでも集落へと近づけんとする配慮だったとも思える。
当然に原野の只中の駅であった。これは原野が酪農地帯と開発された後年にも、そこに孤立するには変わり無い。

札幌からの夜行<利尻>は終着を目の前にした南稚内で10分近くを停まった。そのシーンを記憶していないのものの、郵便荷物車からの取り下ろしのためだったと思われ、ここでの扱いは稚内では無く南駅だったのだろう。冬なら、まだ夜明け前なのだけれど、ホームに降り夜空を仰いで悪天と判断すれば、やがて向かい側2番線にやって来る単行気動車で抜海に戻っていた。稚内まで北上する事由の積雪を纏った利尻島が望めぬ場合の代替地点にしていたのである。なので抜海に降りたのは冬ばかりで、夏場の記憶は無い。
つい先ほど<利尻>で通過した車窓には駅長事務室に灯りのあるだけだった駅は、待合室も煌煌と明るく、点火されたばかりのストーヴでは薪がパチパチと弾けていたものだった。夜の白み始めるまでそこで過ごし、7時半に通過するキハ56/27組成の<宗谷>に間に合うよう駅を望む南側の丘に上るのが定番であった。勿論、本命はその1時間後にやって来る324列車だったのだから、それまでを暖かい待合室で過ごしても良かったのだけれども、特急設定の無かった宗谷本線では6両編成の気動車急行でもそれに匹敵する被写体に違いなかったのである。
この丘からの遠望には、もうひとつ保険が掛けてあり、背景に雄大に浮かび上がるはずの野寒布岬への宗谷丘陵が見通せないなら、写真機を東に振って牧草地の雪原を収めれば良かった。

写真は、その保険カット。雪原を往くのは324列車、旭川行きである。
おそらく此の日のことと思うが、駅で昼の上下貨物が運休と知らされ、有り余る時間潰しに抜海集落までを歩いた。雪の漁港風景の記憶は失われているものの、その近くの民家庭先に繋がれていた飼い犬のことは良く覚えている。分厚い体毛に覆われた大きな丸っこい犬は、姿に愛嬌もあれば、やたらと人懐っこい。犬と戯れる見知らぬ旅人を認めて庭に出て来た飼い主は「それでも樺太犬」と云い、名前は「ブク」だと笑った。なるほど、名は体なのだった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec.@f8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

落合 (根室本線) 1977

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ヲビルビルップの原野を目指した官設鉄道十勝線が下富良野(現富良野)を経由地としたのは、脊梁山脈に向けての経路に空知川の谷を選択したからに他ならない。妥当なエンジニアリングと云えよう。
けれど、その山越え経路の佐幌岳南方の標高640メートル程の鞍部、後に狩勝峠と命名される位置への選定は、土木方面に決して明るくは無い素人目にも非合理に見える。空知川支流の谷を詰めてゆく石狩側は良いにしても、十勝側には峻険な地形が続いているのである。

この経路決定に至る経緯詳細を記した資料には、今のところ出逢えていない。
眼を通し得た限りに、先住民による古の交通路として、佐幌岳北方のシーソラプチ川源流域から佐幌川水源域への標高780メートル程の峰を抜けるサヲロルペシペと、ずっと南側の臥牛山(串内山)から尾田朱山を結ぶ陵線の標高690メートル程の鞍部を越えるルウマソラチルペシペが確認されるものの、後の狩勝峠の記述は見当たらない。どうも、この鞍部越えが記録に現れるのは、1872年にここを通過した酒井忠郁による「北地履行記」が最初のようである。
そして、新得町史は、1898年の時の北海道庁鉄道部長 田辺朔郎技師による現地踏査は、その記述によるところが大きいとする。「北地履行記」には「跋渉セシ處ニシテ実ニ容易ノ山脈ナリ往々石狩ト十勝ノ開道ナスニアラバ又容易ナラント思想ス」と書かれていたのである。
田辺自身も参加したものかは分からぬが、当然に前記ルペシペの踏査も行われ、遅くとも1901年までには狩勝峠に加えてこれらも比較経路に選定されていた。余談ながら、現在の日勝峠のさらに南側、ペケレベツ岳南方経路を比較線としたと書く資料もあるのだが、これだと沙流川の谷を詰めることになり、これは十勝線には様々な経路が検討・調査されたものと解すべきだろう。

一方で鉄道より勾配に規定されない道路計画は先行し、広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1980 に書いた通り、石狩道路と呼ばれた交通路が1899年には前記ルウマソラチルペシペに開通していた。ここは現在にルウオマンソラップチ川上流では鞍部頂上まで串内牧場の牧草地が開かれているように緩斜面が続き、確かに道路には最適の経路に見える。
鉄道とて、その谷を遡ることに技術的困難は無く、手前の位置から斜面に取り付けば難なく峠下部へと到達出来たことだろう。その経路選定においても、ここと狩勝峠が最後まで比較検討の候補とされ、公式記録では無いけれど部内ではこれを推す日本人技師と狩勝峠を支持する英国人技術者との対立にまで発展したことが伝えられる。
では、狩勝峠への決定は如何なる事由からだったのだろうか。全くの私見ではあるが、やはり上部に掘削すべき隧道が左右したものとしか思えない。緩斜面で頂上へ至るルウマソラチルペシペのそれは確かに延長を要したには違いない。
とは云え、狩勝旧線の新内付近に存在した大きな馬蹄形線形を思えば、隧道を介在させない線形選定も可能だったとも思われ、やはり腑に落ちぬのではある。

写真は、第一落合トンネルから落合場内に進入する422列車。この隧道深くに落合の上り場内信号機が建植されている。
もうひとつ腑に落ちないのが、1901年に開駅した落合停車場の位置である。同年と云えば、まだ以遠の経路は未定だったはずなのだが、それは狩勝峠への延伸を意図したごとき位置である。ルウオマンソラップチ川の谷へと右転も考慮するならば、もっと起点寄りに置かれて不思議は無い。事実、狩勝新線建設には場内から分岐して、この第一落合トンネルを要した。

=主な参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
新日本鉄道史 : 川上幸義 鉄道図書刊行会 1968
北海道殖民状況報文、十勝国 : 北海道殖民部 1898-1901
北海道殖民地選定報文 : 北海道庁 1891
南富良野町・新得町・清水町・帯広市 各村史・町史・市史
北海道浪漫鉄道 (ノンフィクション小説): 田村喜子 1986

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/500sec.@f5.6 NikonY52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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