"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

常紋信号場-金華 (石北本線) 1983

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北見市留辺蘂町字金華の人口は、2010年国勢調査のデータによれば5世帯10人と在る。この統計調査での金華地区とは、奔無加川とその支流流域すべての約33平方キロであり、奔無加川奥地の上金華集落はとうの昔に消滅し、常紋への細道(それでも、かつての北見湧別間道路である)分岐周辺の数戸も人の住む気配は無いから、これは金華駅前集落の居住者と云うことになろう。
最近には随分と解体・整理の進んだ様子ではあるが、1990年代末頃で既に廃屋ばかりの眼についた駅前集落の荒れた有様を思えば、未だに居住者のあること自体、不思議な気がしてしまう。

金華の集落形成は1914年10月5日の湧別軽便線留辺蕊-下生田原間開業に際しての奔無加停車場設置による。それまでは、金華はもとより奔無加の地名すらないポンムカ(=小さい方のムカ川)の下る原生林の谷だったのである。
当時の鉄道院には、名寄線との接続構想は持たれていたにせよ、留辺蕊湧別間鉄道を将来の道央連絡幹線とする意識は希薄であり、1906年に北海道庁長官に着任した河島醇が仕掛けた道内統一組織であった「北海道鉄道期成会」の住民を巻き込んでの鉄道敷設促進運動に渋々に応じた結果とも云える特殊軌間軽便線を想えば、道庁の意向の強く働いた拓殖拠点としての開設だったろう。1915年から1916年と記録される上金華への愛媛団体35戸の入植も、この停車場の在ってこそである。

肝心の停車場周辺への定住も進んだ様子で、奔無華特別教授場(後の金華小学校)は1918年に開設されている。ただし、このあたりは奔無加川の谷が狭く耕作地の確保が困難だったから、その住民の大半は造材従事者と家族だったと思われる。米軍が1848年に撮影した空中写真に見える川沿いや山林地緩斜面の耕作地は、戦後の「緊急開拓事業実施要領」(1945年11月5日閣議決定)に基ずく入植者により開かれたものだろう。今は全てが野に還っている。

常紋へと幾度も通った1980年半ばまでなら、駅前には商店も開かれ、東側へと鉄道官舎が建ち並び、その背後に民家の続くそれなりの集落を成していた金華は、道内に幾多と存在した先例と同様に消滅の道を辿りつつある。2010年10月現在に、そこに暮らす5世帯10人の方々の年齢構成を見れば、ご他聞に漏れず高齢者と見受けられる。おそらくは、先の林業関係者の御子孫か開拓入植者ご本人なのではあるまいか。
自動車交通の発達した今なら留辺蕊市街地から然程に離れるでは無いから、ご家族の行き来があれば生活に困るで無し、集落の最後を見届けられる覚悟とも思える。5年を経て、つい先頃の国勢調査の結果は如何なるものだったろうか。
それを見越したように、100年余りの歴史を刻んだ停車場には廃止の報道が為された。

堂々の9両組成で峠を上る32D<オホーツク2号>。
特急列車の貫禄とは、やはり編成長からもたらされるものと思う。
夕刻の様相は冬至も近い時期のこと。バッグや三脚の水滴は早くもしっかりと凍りつき、とっぷりと暮れた道を金華へと急いだものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f4 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

苗穂 (函館本線/千歳線) 2009

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北二条通り沿いの旧市街地は、創成通りから東へ、北を国鉄函館本線線路に、南を豊平川に阻まれた狭い地域を北一条と北三条通りを伴って伸びて往き苗穂駅前に尽きていた。1910年に札幌村大字苗穂村(1902年町村制施行までの苗穂村)の一部が当時の札幌区へと編入された区域であり、線路北側と共に同区苗穂町と呼ばれていた。1934年までには条理区画の整備に既存の「条・丁目」が拡張されて苗穂町は町名として消滅するのだが、編入の年にここへ開設の停車場は永く苗穂であり、一帯もまた引き続いて苗穂であった。
これは、1955年に至り、残りの旧苗穂村域が札幌市に吸収合併されて以降も変わりなく、とうに苗穂町は無くなっていたに関わらず、此の新たな編入域はわざわざ札幌市「東」苗穂町と区別された程である。
1960年代の後半、市内電車で出掛けた苗穂は、やはり札幌の行き止り、言うなれば街外れの印象が子供心にも強かった。川向こうの旧白石村もとっくに札幌市白石町となり宅地開発の進み始めていたにせよ、そこにはまだまだ田園風景が広がっていたこともあろうが、函館線の車窓に眺めた、苗穂駅前から豊平川の橋梁に至る袋小路の地区に空き地と錆びたトタン屋根の工場が交錯する光景の続いていたせいにも思える。
この、住所で云えば北二条東14丁目から20丁目とされる辺りは、旧い地図には豊平川の流路だったと読め、1947年に米軍の撮影した空中写真にも、その痕跡であろう水面が見て取れる。改修による直線化で堤防にて仕切られた後、土を盛ること無く乾燥化にて産み出された低地なのであろう。その出自が何やら殺伐とした心象を与えていたとも云えそうである。
1972年の札幌の政令都市指定にともなう行政区制下では、旧苗穂村域を北側地域と分断していた函館本線線路が行政上にも東区と中央区の分界と定められ、ここは名実共に中央区の辺境と化した。都市化の進んで工場が撤退しても、替わって進出したのは遊戯施設や物流倉庫であり、空き地や駐車場の目立つ空疎な風景には土地の刻印とは消えぬものと改めて思う。
最も奥地の東20丁目の農業用シート材の加工場がその全てには、おそらく住民登録者はいないだろう。

さて、東区との境界線であるが、これを仔細に見て往くと創成川から東7丁目まで地平当時の函館本線南側をトレイスし、そこで何故か北側に遷移して苗穂停車場に至っている。苗穂の鉄道用地は中央区と東区に跨がっており、構内での区境は岩見沢・千歳方面乗降場(5・6番線ホーム、おそらく開設以来の乗降場位置である)の中央を通過している。つまりは函館本線列車には東区で、千歳線列車には中央区で乗降することになる。だからと云ってどうなるでもないが、知っていると少しは楽しめようか。

苗穂東方、桟橋起点290キロ付近での8010列車<カシオペア>。
再々の画角はご容赦頂くほか無い。陽の短い季節に、この列車の走行を捉えられるのはせいぜい椴山あたりまでなので、札幌を出て直後のこの位置には幾度も立ったのである。
左の画角外が北二条20丁目。1960年代半ばに行われた既設線上流側への豊平川橋梁架替に際しては、この20丁目に線路用地が求められた。その買収額はかなり低廉で済んだものと思われる。

[Data] NikonF5+AT-X300AFPRO300mm/F2.8D  1/250sec@f11 NON filter Ektachrome Professional E100G [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.

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