"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

美留和 (釧網本線) 1978

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航空機で道内入りし、専ら貸し自動車で巡られる諸兄には無縁の話しであるが、列車と徒歩の鉄道屋に、最近の道内は動きにくくて仕方がない。
要因は何といっても夜行急行の廃止による長距離移動の制約である。それの宿代わりはさておいても、夜間移動に加えて、未明から早朝に南稚内や生田原に網走、音別や釧路に降り立てたはずが、前日の撮影行動時間を削って午後から夕刻の特急列車を選ばねばならなくなった。必然に現地への投宿も余儀なくされる。せっかくに全道全線のオープンチケットを利用しても、かつての均一周遊乗車券の時代のごとくに、それを存分に活用するなど端から諦めるしかない。代替に夜行バスなど選択すれば、それこそ余分な負担になってしまう。
一般の用務客としても、札幌から旭川や帯広あたりならまだしも、釧路に函館ともなれば朝の特急では午前中を車内で浪費するのだから、夜行需要など低下のしようも無かろうと思えるのだけれど、現実には夜間移動は嫌われて、旅客は前泊を選択するか、自家用車もしくは当日朝の航空機へと逸走したのだった。
旧い鉄道屋は、早起きして遠い飛行場を目指すくらいなら、前日夜から車内で一杯やり乍ら過ごす方が余程マシと考えるのだが、もはや少数派と云うことである。結局のところ、泣く泣く夜行バス料金を別払いしたり、夕刻の斜光線に後ろ髪を引かれつつ特急の客となるしかなくなった。

もうひとつには、釧網本線の使命だったはずの太平洋岸とオホーツク岸との回廊機能の喪失である。
単行の気動車に場違いな観光列車ばかりとなった、この線を撮る気は全くに失せているのだが、ならばと、朝方で「用事」の終わってしまう石北線から日中を潰しての根室線方面への抜け道としようにも網走で足止めされる。勿論、年間の多くの期間で日中のスジの1本が緑-川湯温泉間を直通することは承知しているけれど、所詮に定期運行では無い。キハ54形内燃車の優れた動力性能を以てして、現行の各駅停車はかつての急行列車並みの所要時分で釧網間を到達すると云うに、使えぬのでは話しにならない。
意図的なダイヤ編成には違いないから、先に書いた「喪失」は「放棄」とするべきなのだろう。
釧路への速達には、結局のところ北見からの都市間バスに頼らざるを得ず、ここでも鉄道のオープンチケットが無駄になる。

一面に霧氷の朝を往く604D<大雪6号>。この釧路からの札幌行き急行はキロ26を含む5両組成で釧網本線を走破していた。<しれとこ2号>を併結した釧路-標茶間なら7両編成を組む堂々の幹線列車だった。
阿寒湖に摩周湖の内水面を控えた美留和付近は、放出される水蒸気に冷え込めば霧氷の生成され易い区間とは、以前にも書いた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f11 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

七飯 (函館本線) 2008

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大野平野から無沢峠の直下、峠下隧道内での施工基面高136M90を経て小沼畔へと標高差100メートル余りを上る既設線勾配を緩和した別線新線、通称の藤城線は1966年9月30日に使用を開始しているから、函館本線無煙化までの7年間、ここを蒸機列車が通過していた。
10パーミルに緩和の標準勾配には、重連運転や渡島大野からの後補機は失われたものの、力行は約束されていたし近代的な真白いコンクリートラーメン高架橋との組合せも面白く、幾度となく通ったものだった。畑作地に農家の点在するだけだった周囲から見上げるのは勿論に、柵すらなかった橋脚のタラップを上って線路際より七飯構内からの盛土築堤を駆け上がって来る姿を捉えたり、眼下の仁山回り既設線の俯瞰を試みたりもしていた。直下に住宅の目立つようになれば、このタラップ上り口には鉄製の柵の巡らされたものの、1990年頃までなら北海道旅客鉄道函館支社に申し入れて撮影許可も得ていたけれど、昨今のごとき状況下では門前払いが関の山であろうか。

当然に、延長913メートルに及ぶ陸橋自体の俯瞰を考えぬ訳も無く、当時に1本しか無かった城岱牧場への登坂路周辺や送電線直下の保守用通路など斜面を探索するも、その時点で適当な地点を探し得えずにいた。ところが、とある月刊誌(鉄道雑誌では無い)に陸橋上の蒸機列車をほぼ正面から撮影したカットを見掛ければ、やはり撮れる位置は在るのだと些かに悔しくも思い、その写真からおおよその位置を、かなり西寄りの送電線保守通路付近からと五万図上で当たりをつけて再度探索に出向くも発見出来ず、斜面を彷徨った挙げ句に辿り着いたのが、俯瞰と云うには高度の物足りない畑作地だったのである。けれど、既に蒸機の無いことには写欲の沸かず、1980年に<ニセコ>が14系に置き替わるまで永く塩漬けにしておいた。→ 七飯 (函館本線) 1983

その位置は、2000年3月に開通した函館新道の用地となって失われてしまうのだが、同工事には前記の城岱牧場への登坂路(町道桜町8号線)が付替られて眺望の開けるところとなった。四半世紀を待った位置とでも云おうか。
早朝の低い斜光線に高架橋を上るのは3061列車。
C62に牽かれて高速で駆け上がって往く<ていね>編成をここで撮りたかったと、つくづくに思う次第。

[Data] NikonF5+AT-X300AFPRO300mm/F2.8D 1/60sec@f5.6 Fuji LBA2 filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by LightroomCC on Mac.

張碓-銭函 (函館本線) 1982

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東京と航空機で往き来しながら福岡に仮住まいしていた頃、筑肥線の今宿から今津橋を渡った洲ノ崎の漁港で、岸壁を這い回るムカデのような生物に驚いたことがある。近くで作業する漁師の網に同類が何十匹と張付いており、尋ねて気がつくのだが、恥ずかしながら生きたシャコの初見であった。鮨屋カウンターの冷蔵ケイス越しには幾度も対面していたと云うのに、水揚げされたばかりのそれがほのかな琥珀色とは思いもしなかったと記憶する。博多湾は、その浅海の泥中にシャコが棲息し、初夏に旬が楽しめた。

大消費地である首都圏に眼を向ければ、そこに流通しているものは、かつてには東京湾や瀬戸内産が多かったが、現在には北海道石狩湾の水揚げが大半を占めると聞く。それの20センチに迫らんとする大振りの個体が市場に好まれていると云う。
石狩湾には古から棲息していたのであろうが、商業漁獲の始まりは1950年代に激減したニシン漁の代替としてであった。終点に着いた電車の酔っぱらいを車掌が起こす有名な小咄、「お客さんもう車庫ですよ」「なにぃ、シャコでもいいからもう一杯呑みてぇ」の通り、かつてには下魚の扱いだったのだけれど、鰊の群来の無くなってしまった沿岸では、それを穴埋め出来る魚種など無く、とにかく泥底をさらえば幾らでも獲れたシャコに縋ったと云うことなのだろう。おそらく、当時には大半が漁師家を始め沿岸だけでの自家消費だったろうが、カニ・エビと異なる独特の旨味が市場に受け入れられて、今や小樽市や石狩市の漁協は地域ブランド化を推進するまでになっている。
漁期は脂の乗る抱卵期の4〜6月と脱皮を終えて身入りの良い10〜12月であり、海岸から100から300メートル前後、水深10から30メートル程の泥底への刺し網漁法による。海の荒れて海中の濁った際に捕食に巣から出る習性を利用して、時化前に網を海底に被せておき、それの収まってから引揚げるのである。よって、一般的な漁と異なり、漁期に時化の日の多い程に漁獲量が増える。
石狩湾岸では約80の漁業事業者に第二種共同漁業権が許可されていると云うが、1トンから5トン程度の漁船規模で操業が可能であり、全て零細(個人)事業者により担われている。

小樽市張碓町の恵比寿島(岩)に、昔から小さな船溜りに漁師小屋の設けられていたのも、おそらくはシャコ漁のためなのだろう。そう云われてみれば、真夏にも冬期にも船の出ているのを見掛けたことは無い。
恵比寿島を車窓に降雪の石狩湾岸を往くのは12D<北海2号>。後追いである。
前年秋のダイヤ改正で<宗谷>の札幌以南区間を分割・格上げした運転であった。画角の幾度かの既出はお詫びする。この位置にも季節毎に立ったものだった。

シャコは鮮度の落ち易いため、大抵は網から外されてすぐに漁師自らの手で巨大な釜にて浜茹され、氷蔵の上で出荷される。首都圏へと運ばれているのは皆これである。浜では少量ながら活けも出回っており、小樽市内の鮨屋で食することが出来る。海のモノなら鮨も刺身も好む酒呑みとしては当然にそれもいただいているのだが、シャコはやはり浜茹、しかも茹でたてを食らうべしとは書いておく。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC40M filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

様似 (日高本線) 1968

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1926年12月7日に日高拓殖鉄道が静内に達した際、その終端駅設備として設けられたであろう転車台や給炭水施設が、車両や乗務員配置を得て静内機関区とされるのは、様似までの日高線全通を経た後の1938年3月10日と記録される。
苫小牧から佐瑠太までが改軌された1929年11月26日から、それの静内に及ぶ1931年11月10日の約2年間は、苫小牧機関区に所属していた762ミリ軌間車両は静内に移されていたはずだし、改軌後も末端側の運行拠点だったはずなのだが、おそらくは永く駅長に所管され車両も要員もそこに属していたのだろう。
10年を経てせっかくに独立した現業機関となった静内機関区も、戦後の1959年11月1日の日高線管理所発足には乗務員をそれの所属として、室蘭機関区の静内車両分所に改組されてしまう。管理所の廃止後も、ここは二度と本区と呼ばれること無く、追分や苫小牧機関区の静内支区であり続けた。

そして、1937年からの終端駅である様似に所在の施設もその度に名称の変わったことだろう。それが様似駐泊所だったのか給炭水所だったのかは知り得ぬままで居る。
上下本線をそのままに構内外れまで延長すれば、木造の給炭所と煉瓦積の土台に載った給水タンクが線路を挟んで向き合っており、その先は人力に頼る転車台に達していた。小さな施設には給炭水線に転向線に留置線を兼ねた線路と云うことである。
空間の広い構内の行き止りにそれだけがポツンと置かれるが印象的であり、詰所や休憩所が附属していなかったのは、それには駅舎を用いていたからだろう。
この頃のダイヤなら、朝の8時から9時頃、昼の14時から15時過ぎまで、そして夕方18時から19時頃の一日3回、ここで給炭水を受けたC11が休んでいた。札幌から日帰りで訪れていた当時、苫小牧操車場を早朝に出る1893列車を始発列車と後の急行で追いかけながら様似に達すれば、先着したその牽引機が人気の無い給炭水線に佇む姿を目撃したものだった。

この日も給炭水線に居たのはC11210。この機関車には日高線へと向かう度に出逢っていた。調子の良い個体だったのかも知れない。
日高の山系が背景となる絶好のロケイションには、今なら随分と拘っただろうが、作画意識も拙い此の頃には気にもしなかった。
まもなくに機関士と助士が戻り、日本電工の専用線から貨車を引き出せば、それを組成した1896列車を牽いて静内へと帰って往く。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor135cm/F4 1/500sec@f4 Y48filter NeopanSS  Edit by LightroomCC on Mac.

北入江信号場-有珠 (室蘭本線) 2002

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1980年度から1983年度に行われた14系の座席車系列や寝台車系列の北海道向け転用工事に際しては、台車にも極寒地運用が留意され、空気バネやオイルダンパ、軸バネへの被覆は勿論、空気バネの補助空気室を兼ねた構造の上揺レマクラへの防雪シールドなどの耐寒耐雪装備の他、耐雪ブレーキを装備し、それの常用を前提にブレーキシリンダを、1軸に1個の台車当たり2個から1輪に1個を割り当てた4個装備に増設、それにともない設置位置が台車枠横バリから側バリ外側へ移された形態が特徴的なTR217F型ないしG型に改造されていた。(但し、道内の最高速度95km/h運転にA急ブレーキ弁を撤去)
余談ながら、改造項目に「耐雪型鋳鉄製制輪子の使用を可能とした」との記述を一部のWebSiteなどに見掛けるのだが、それは原設計時から可能だったことを付記しておく。(→近代改訂図説客貨車 増補改訂18版 : 交友社 1983)
これの初見には、1955年のTR50に始まるプレス鋼溶接構造の客車向け台車の完成形であり、優美とも云えたTR217とは思えぬ無骨な外観に驚き、同時に氷雪の線路を駆けるには相応しい姿とも納得したものだった。実際に、厳寒の夜を走り抜け終着した編成の足回りを見遣り、突出したブレーキシリンダ部から盛り上がるように付着した氷雪のフォルムを美しいと感ずることもしばしばと記憶する。

実は、1986年度から始められた青森運転所の25系列に対する、将来の北海道直通列車向け転用工事でも同様の措置のなされるものと考えていたのだが、改造の確認されぬままに、その一群は1988年3月の<北斗星>運転開始を迎えてしまった。ならば、北海道旅客鉄道の手にて順次改造の施されるだろうと、それを札幌運転所客車検修に書簡を送り尋ねれば、担当助役氏からの丁寧な返信には、こう書かれていたのが印象に残っている。
----以下引用-------
(当該車の)改造当初より当所としては、14系客車並みの台車改造を要望しておりましたが、当時の北海道総局も北海道旅客鉄道も、そこまでの寒地向け改造は不要としてしまいました。札幌以北には運転しないのが幸いではありますが、やがて来るべき冬が不安でなりません。
----引用ここまで------
当時に俄然注目の豪華寝台特急を預かった検修陣の心情が吐露されていたものと思う。この助役氏も述べていたように道南区間だけの運転には、結果的に簡易的耐寒耐雪装備に留めたTR217C改で運行は確保され、不安は杞憂に終わったのだけれど、F型であれば避けれた小さなトラブルは多発し、検修陣が対応に忙殺されたとは想像に難く無い。1988年度末の6003・6004列車定期化にはオハネ14を種車とした改造車の多数が<北斗星>運用に加わり、それにも無骨な台車を履いたクルマの組成されるようにはなっていた。

ところで、オハネフ25 218/220の改造車であるスハネフ14 551/552もTR217Fを履いている。これは、前者のTR217C改を、同時期にオハネ25 551/552の種車となったオハ14 502/538のTR217Fと振り替えた結果である。前記のとおり、当時にTR217Fは110km/h運転用のA急ブレーキ弁を撤去しており、<北斗星>用のオハネ25 551/552がそれを要したためであった。他の14系を種車とした<北斗星>向け車両は、その際にTR217Fにこれの再装備を行っているのだが、<はまなす>の最高95km/h運転を良いことに、ここではそれを回避したのである。

最近に高名となった長万部起点44キロ500メートル付近反向曲線区間での1列車<北斗星1号>。
此の時には勿論、2007年にも件の位置には人の立ち入った形跡など無かったのだが、2010年の再訪にはすっかりと土の露出しているには驚いたものだった。これは、昔からの位置である畑作地の縁からのカット。陽の高くなっての通過には光線の工夫の余地が無い。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/500sec@f3.5 C-PL filter Ektachrome Professional E100G [ISO160/0.5EVpush] Edit by LightroomCC on Mac.

落部 (函館本線) 1992

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森町域から八雲町域に至る噴火湾西岸には海成段丘が発達し、特に海食崖に続く波食棚が離水するまで隆起しなかった石倉から東野に掛けては段丘崖が汀線に接している。
古代以来に海沿いの通行路とは一般に海岸線をトレイスしていたから、この区間はやはり難所であったろう。幕末期の1845年に此処を通過した松浦武四郎は、後年の東蝦夷日誌に、モナシベ(現在の栄浜付近)からホンミツ(地名は残らなかったが、現在の落部市街地東端あたりであろうか)までを「タテと云崖の下を行也。此処風波有、又は雨の日等は通りがたし。又雪の後には崖崩て落ること有、之まゝ径我人有ことなり。旅人此処を行時は日和を考て通行すべし。」(※句読点を加えている)と記し、落部川を渡船してからモノタヘ(現野田追)への段丘崖を「クロハゲ并て少し行アカハゲ赤土崩崖なり」と書いている。
ここには、1600年頃に松前藩による知行地たる場所の置かれていたのだが、当初には福山(松前)との往き来は勿論のこと場所内交易拠点間の連絡にも主には船が用いられていた模様である。1799年に東蝦夷地を直轄領とした幕府は、松前から長駆エトロフに至る軍用路を開設し、陸上の運搬路も開かれたものの、これとて局地的踏分道を繋ぎ合わせ、辛うじて人馬の通行を可能とした程度で、通路開削の困難な段丘崖直下の海岸線は「海岸汐時に寄深ヌカシテ馬蹄難進ことあり用心いたす所なり」(「蝦夷渡海記」1809年)と捨て置かれた様子は、40年余り後の松浦武四郎の記述に合致する。
それでも、その時代に鷲ノ木・山越内・長万部に通行屋が、落部・黒岩に昼休所が設けられて通行の利便の図られていたことが記録されており、この原初的な通行路は日本海岸寿都までの連絡も担い、寿都街道と呼ばれていたようである。

森から長万部への本格的な西洋式の交通路、河川への架橋も含めた「道路」の開かれるのは、1888年に着工して1890年12月に開通した国道が最初であった。これには、規格とされた幅3間(約5.5メートル)の確保に、段丘崖直下の開削は困難であったのだろう。ヤウルクテキナイと呼ばれた(らしい)現在の本石倉付近から東野へは段丘面上を通過する線形の選ばれていた。
よって段丘崖下に路盤を構築したのは、アジア太平洋戦争戦時下での陸運転換政策に急遽着工され(計画と設計は1930年代から存在し、一部隧道は1942年から着工されていた)、1945年7月20日に使用を開始した函館本線の別線が最初であった。段丘面上へと登り降りする既設線に比して勾配の除去を要求されたゆえのことであり、古の通行路が鉄道に姿を変えて復活したのだった。土木技術と機械化の進展の結果ではあるが、段丘崖の崩落と噴火湾の波浪に悩ませられる災害区間となったことは、松浦武四郎の時代と違わない。

海面との比高の40メートル近くに及ぶ段丘崖下を往く8002列車<トワイライトエクスプレス>。
ここを17時33分頃が定時だったこの列車の光線下で撮影は、夏至の近辺と云えども困難だった。それは列車の斜め後方からとなるのだが、急峻な崖下までに届くことは無く、せめては海面への照射の反射光に期待することになった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/125sec@f5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCCon Mac.

銀山 (函館本線) 1975

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函館運輸所に配置のDD511142には、2014年度末日を以て用途廃止の措置がとられた。四半世紀に及んだ本州連絡夜行列車群の撮影では、ファインダに確認する機会の最も多かったと記憶し、それらの最後を見届けるものとばかり思っていただけに意外感が残る。

DD511142号機は、1974年度第一次債務車両計画にて発注され、日立製作所笠戸工場で落成して、1975年6月27日に当時の北海道総局に配属、岩見沢第二機関区の配置とされるも、同年12月1日付では1141・1143の僚機と共に小樽築港区に転じて、主には函館線区間に運用されていた。
1974年度と云う年は国鉄の無煙化計画の最終局面にあたり、北海道や山陰地区に残存したD51やC57蒸機の一掃を目的とした、74年度本予算での51両と前記第一次債務計画での38両の計89両とは、1962年度が初年度であったDD51形式内燃機の単年度発注数では最大両数であり、以後1975・76年度と続いた発注は既に山陰地区のDF50にDD54の内燃機の取替用であった。
つまりは無煙化目的では最後に増備の一群となり、89両の内、1092-1103・1135-1169の45両がA寒地仕様車とされて、75年の1月から9月に架けて旭川・岩見沢第二・小樽築港の各区に投入、石北・宗谷線や道央地区の蒸機を放逐したのである。なお、1135号機のみは、5月に東新潟区に新製配置の後、9月までに鷲別区へと転じていた。磐越西線での夏季輸送に応じた措置であったろう。

小樽築港区へのDD51機の配置は、1973年4月の2両が最初の事例であるが、一般装備機であったこれは関西線無煙化用途を要員検修と道内の夏季旅客・秋季貨物輸送を兼ねたもので、年内には本来の配置区である亀山区へと去り、この年10月1日改正を以ての函館山線区間の完全無煙化は、篠ノ井・中央西線電気運転にともなう篠ノ井区および稲沢第一区からの25両(一部は短期間の五稜郭区や鷲別区配置を経て転入)と、1972年度第二次債務計画で新製の7両にて為されたのだった。
以後も増備は続くのだが、1974年7月の3両を除けば、何れも本来配属の前使用の多くて定着しなかった。上記の1974年度発注車からも1975年3月から6月に12両の配置があったものの、内8両が同年10月から翌1月の間に鷲別区や岩見沢第二区へと転出し、それに替わって転入したのが1141・1142・1143の3両だったのである。岩見沢第二との間でこの3両が差替えられた事由は分からない。
とまれ、1142号機は小樽築港区で11年近くを過ごし、年度末の民営化を控え継承体制を確立した1986年11月1日改正を以ての同区の乗務員区化に際して、連番で揃っていた1136-1143号機と共に岩見沢第二区を改めた岩見沢機関区へと転じた。この改正では旅客鉄道会社と貨物鉄道会社への承継車の振分けが行われ、それがどのような基準に拠ったものかは知り得ぬのだが、岩見沢区への配置には将来の特急機の座が約束されたのだった。

北海道旅客鉄道に所属したDD51機の25両が岩見沢区改め空知運転所に集中配置とされた1990年7月当時、本州連絡列車群の牽引は最大で7仕業に13両の使用だったから、重連の本務機となる確率はその半分、出区から帰区まで本務と次位補機の役目の入れ替わるだけの運用を上下別にすれば、さらに半分の25分の3(12パーセント)程度となる。けっして高い数字とは思えぬのだが、それにしてもこの機関車にはよくよくに出逢っていた。

新製後、最初の冬を迎えた頃の1142号機。121列車の旭川行きを牽いて銀山に到着した姿である。
小樽築港機関区に転じて10日足らずなのだが、既に同区配置車に特徴的なスピーカが設置されていた。蒸気暖房用接続ホースは使用中と云うことなのか、所定のホルダに掛けられていない。
付け加えさせていただけば、続く函館所のスハ32・スハフ32は、これが優等列車用であった当時を思わせる程、重厚に整備されていた。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 1/125sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by LightroomCC on Mac.

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