"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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名寄 (宗谷本線/名寄本線) 1980

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手稲の新興住宅地に暮らした家族が晴れて札幌市民となった頃だから、1967年か68年の冬だったと思う。札幌駅構内各所の分岐器から時折雪煙の上がるのに驚き、何事かと思った記憶が在る。構内に降りて近づく訳にも往かず、遠くから観察していると、列車の通過して進路の切り替わる度のことと知れた。推察は附いたのだが、念のためと4番/5番線ホームの苗穂方にあった輸送本部を訪ねて問えば、案の定、空気で分岐器の雪詰まりを吹き飛ばす装置であり、今冬からの設置には大変に役立っていると教えられた。引き続いて、道内各駅構内に多くが導入された「圧縮空気式分岐器除雪装置」の初見であった。

降雪地域において、分岐器の転撤部・轍叉部への雪詰まりによる不転換には、永らく人力に頼らざるを得なかったのだが、戦後に至り季節要員の不足と賃金の高騰には機械化の研究が行われ、1950年代半ばまでにはシーズ線ヒーターによる直接過熱式の電気融雪装置が上越線石打駅構内での試用を経て、東京や仙台、札幌の各鉄道管理局管内にて実用化され、国鉄本社においても「ポイントヒータ研究委員会」が各地での実績を元に1963年度に「電気融雪器標準仕様書」を策定していた。
しかしながら、当時には床板形も考案されていたものの、軌条に直接に設置する構造にかかわるメンテナンスや分岐器一組あたり2400から3400Wの電力消費に、本社内に設けられた「雪害対策分科会分岐器除雪専門部会」では、ガス赤外線式、蒸気式および圧縮空気式の各方式が検討されたのだった。前の二方式が湿雪ないし潤雪に応じ熱源を要するに対して、後者は寒冷地での乾雪を想定した空気式であり、謂わば掃雪装置とも云えるものであった。極寒地において、電熱式での融雪の再氷結や分岐部通過の振動で列車から落下した氷雪塊の詰まりなどの融雪には、より大きな熱源容量を要して、降雪を積雪のそばから吹き飛ばすのが有効と考えられたのである。

そして、1964年の基礎試験に続いて1965年1月からこれの実地検証の行われたのが、道内でも屈指の寒冷地域に位置し、構内に多数の分岐器の配された名寄駅であった。
初期装置は基本レイルとトングレイル間に埋め込まれたノズルからの5kg/㎤の圧縮空気噴射により、含水率0〜0.5%の積雪なら10センチでも20秒で完全な掃雪が確認されたけれど、少しでも含水率の高くなれば弱点を露呈していた。空気圧を7kg圧に向上、ノズルを大きくした改良型を次の降雪期に同じく名寄駅構内に設置し、10センチの湿雪でも35秒の噴射で除去を確認して実用化に至ったものである。

名寄が極寒ゆえに試験地に選ばれたのはこればかりではない。
将来の北海道新幹線車両設計の基礎データ収集のための試験列車が、1972年度より77年度まで冬期毎に運転されたのも旭川-名寄間であり、近年では281系強制振り子式気動車の試作車によるふた冬に渡る長期実用試験が記憶に新しい。

道道538号旭名寄線の名寄跨線道路橋から名寄構内の南端を見下ろす。
左端が南部引上線、その隣は名寄本線、旭川行き342Dの走り去るのが宗谷本線の上り本線であり、まもなくに隣接の下り本線に合流する。右端は深名線で、この先で分岐する天塩川製紙名寄工場への専用線と線路を共用していた。
引上線に見える分岐器には、もちろん圧縮空式分岐器除雪装置が付加されている。
この除雪装置の使用成績は実に良好であり、吹き上がる雪煙は高架となった札幌駅を含め、現在にも各所で見ることが出来る。おそらく将来もそうだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/15sec@f2.8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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札幌 (函館本線) 1998

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1988年3月ダイヤ改正における設定当初の<北斗星>系統列車の所定編成は、電源/荷物車とも最大11両組成であった。青森運転所で上野/大阪-青森間系統に運用していた24系25形-78両に電車から転用の6両を加えた84両による札幌所と尾久区の計6組運用と云う車両需給と、当時に輸送力列車と位置づけられた6003・6004列車を含めての需要想定からのことであろうが、もうひとつの制約条件も存在していた。札幌の着発線および乗降場の有効長である。
当時に高架化工事の末期に在った札幌は1958年に構内改良を行って以来の地平駅設備であり、客車側に電磁自動空気ブレーキの装備されるとは云え、制動力から過走余裕を考慮せねばならない機関車牽引の全長273メートル余りの列車扱いには、運転取扱基準規程から線路有効長が316から346メートルの1・2・5番線は用い得ず( *1)、それぞれ488メートル、434メートルである3番線と4番線に限定され、所定着発線を旅客車14から15両を収容する300メートルの乗降場有効長を持っていた前者としても、異常時には250メートルに留まる後者に着発することも考慮すれば、これに収まる編成組成を要したのである。
さらには、当時の<北斗星>は札幌所と尾久区では道内区間で編成が方転しており、機関車停止位置を同一とした上で、10両の旅客車が乗降場に収容されることも考慮されたものと思われる。
しかしながら、運転開始の間もなくから施行された1列車への函館からのスハフ14連結、また夏季繁忙期に度々行われたB寝台車の増結による12両組成での運転には、4番線入線に備えての上下列車での停止位置調整を要したものと思う。
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( *1) 6・7番はもとより300メートル以下、8・9番線に至っては100メートル台だった

翻って、<北斗星>運転開始の年11月に第一次開業を迎えた高架駅は、1978年5月に国鉄が策定した基本計画では5面10線とされた乗降場の内、1番線から6番線までに接する第一から第三乗降場の3面は280メートルの有効長を、7番から10番線までの第四、第五乗降場は260メートルを確保する設計であった。つまりは全てが旅客車12両から13両の長編成に対応する設備を予定していたのである。
ところが、その後の輸送需要や情勢の変化により1985年3月に設計が見直され、第三乗降場のみを280メートルに据え置いた他は、全て230メートルに短縮されてしまう。同乗降場が存置されたのは、5面10線の中央に位置して函館線と千歳線のそれぞれの上下線に対し進出・進入ともに本線支障の少なく、長編成列車の出入りには支障時分を最小に出来るためである。もちろん、将来の本州北海道間直通寝台列車を想定してのことだったろう。

<北斗星>は、その想定どおりに第三乗降場の5番線を所定の着発線としていた。長い有効長に苗穂方へ突き出した機関車の停止位置に隣接ホームからの照明の届かぬのは好ましく、到着列車の前照灯の反射光を用いた演出が楽しめた。しかも、それの着番線、即ちは進入ルートの別を選ぶことで角度を工夫出来たのだった。
静かに発車を待つ重連の機関車は6004列車の牽引機。設定から10年、乗車率に陰りの見え、6003・6004/5・6列車では編成の季節減車も施行されていた頃である。その入線にカメラを向ける者も皆無だった。
これは千歳上り線から2番線に到着する列車による反射光。

ところで、この5番線の線路有効長は乗降場の桑園方・苗穂方共に4番線との両渡線の存在により335メートルに制約された。けれど、6番線との同時着発には、それらを鎖錠することで運転取扱基準規程上の過走余裕を確保し、その場合の実質的有効長は600メートルに達する。

[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S Bulb@f4 Fuji CC10M filter Kodachrome 200 Professional(PKL) Edit by PhotoshopCC on Mac.

鬼鹿 (羽幌線) 1983

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晩秋ともなれば、日本海岸は時雨に見舞われる。大陸に張出した高気圧からの季節風が日本海上空に雲を生成し、沿岸に断続的な驟雨をもたらすのである。これが冬の走りと云われているとおり、より季節の進めば、やがて雨は雪と変わり季節風の強まりには風雪の日々が訪れる。
以前にも書いたと思うが、鬼鹿には冬にばかり幾度も通った。冬旅となれば、稚内や網走からの夜行急行をまだ深夜とも云えた深川に捨てる旅程を必ず組んでいたのである。
遮るもの無い強風に白波が砕けて飛沫となり、海上遥かにまで連なる雄大積雲の乱れた雲底からもたらされる風雪の情景に惹かれてには違いないのだが、吹雪くのが当たり前の日々には梃子摺ったゆえでもある。
例え猛吹雪としても、吹き下ろす強風に積雪の舞い上がる地吹雪とは異なり、線路から多少高さを稼いだ程度の段丘斜面からなら列車を視認出来ぬことは無いけれど、鉛色の海面への視程は閉ざされてしまう。吹雪くのはひとつの積雲が上空を通過して往く都度のことであり、それは断続的であったから、その周期を計って列車通過時刻近辺での天候を予測しては見るものの、結局は風の呼吸に任せるしかなかったと想い出す。

1983年1月後半の旅でも、深川からの821Dで着いた鬼鹿は吹雪き模様だった。力昼方に歩いて待った上りの急行<はぼろ>は、その猛烈な吹きの最中にやって来てしまい、仕方なく今度は同じ位置から鬼鹿漁港の防波堤を画角にして次の列車を待ったのだった。現在にツインビーチの開かれたあたりである。
雲底の低い雄大積雲の到来と吹雪の襲来は視認が出来た。上空に雲の先端が延びて露出の低下が眼にも見えたタイミングで海上を見遣れば、遥かにその先は吹雪いているであろう黒い壁が立ちはだかっているのである。列車通過時刻の近ければ、それの早いか吹雪到来が早いか、気を揉むことになった。
列車は幌延からの1822D、留萠から遜色急行<るもい2号>に昇格して旭川まで往く。
上空には既に雲端が達して、海上には次の吹雪が迫っている。機材の撤収はそれの通り過ぎるのを待つしか無い。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f4 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

北浜 (釧網本線) 1981

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鉄道を真っ当に撮り始めてから、最も多く降り立った駅は北浜だと記憶する。すべての記録を精査したではないが、間違いないだろう。札幌在住時に近所の北大生にお供を頼んでの最初の遠征旅行で目的地として以来、内地から道内へと向かうようになっても必ずスケジュールに組込み、ひとつの旅で2度3度と訪ねたことも在った。
道内では此処と日高本線に数例を見るだけの海原を画角背景に出来た濤沸川橋梁が存在したにせよ、他にはこれと云った立ち位置の無いにかかわらずの訪問は、そこでの基本形と云えるその画角で最良と思えるカットを初回訪問の、しかも最初のシャッタで押さえてしまっていたので、それを超えることを無意識にも自分に強いていたからだろう。→ 北浜 (釧網本線) 1967
とは云え、やはり北辺の沿岸のロケイションに気候、空気感、何より駅の佇まいに魅せられてのことにも違いなく、そこでの旅の禁欲を破っての至福の時間については前にも書いたので繰返さない。

橋梁撮影の基本形ばかりでなく、その周辺や網走方の波打ち際、それを見下ろした海岸段丘上など然程遠く無いところに幾つもの立ち位置の見つかるのも、徒歩の鉄道屋としては有り難いことだった。後には、市街地後背の段丘からそれを前景にオホーツクを眺めた画角に執心し、それこそ季節を変え、時間を変えてそこに立ったのだけれども、これもコンテに思い描いたような絵の撮れぬままに終わっている。
1984年2月改正で、既に実体は単なる客車列車だったとは云え機関車の牽く混合列車が一斉に気動車に置替られ、1985年3月改正に至って撮影可能な貨物列車も2本にまで減ってしまえば、翌86年の秋までにここでの撮影を止めてしまったからである。釧網線自体の貨物列車運行は1997年春まで維持されたのだが、それも釧路方から中斜里までであり、単行やせいぜい2両組成の気動車の往来には、撮る気の失せたのが正直なところであった。

鉄道を失った市街や集落の衰退して往く様を目撃することは確かにあるのだが、一方で滅び往くは鉄道ばかりと云う事例も数多である。ここもそのひとつでは無いかと思える。1984年2月改正での要員引揚をきっかけとして始まった駅自体の観光資源化は幾多の人々の努力の実を結び、テレビドラマや中国映画の撮影地として情報のマスに流れれば、今や観光バスの定番立寄地ともなり、それとは無縁の市街地も網走市の郊外域として然程に寂れるでも無い。網走方面が4車線に拡幅された国道244号線とは裏腹に、駅へは一日に数本の単行気動車が申し訳なさそうに着発するのみなのである。
これの無くなっても誰も困りそうになく、怨念の籠ったかのような「お札」に占拠された待合室は、そのままに「観光地」に存続するのではあるまいか。個人的には、二度と訪れたくも無い場所に成り下がった。

10メートルを上った程度の牧草地の外れから濤沸川橋梁を眺める。列車は混合634列車、網走行き。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

長和 (室蘭本線) 2008

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河川を横断する「頭首工」なる構築物の名称は、水路システムの先端に在って水圧を受け取水を働く部位を指す英語名 Headworks の無理矢理感溢れる和訳と云う。
取水設備として特に独自の形態を持つでなく、基本的にゲイト水門を持つ取水堰と取水設備からなる施設の総称に違いないのだが、その取水目的が農業用灌漑向けに限られるものが呼び分けられ、これは農林水産省においての専門用語とされる。河川中の施設であるから、その設置や設計・建設・施工、運用など国土交通省の定める各基準への準拠を当然に求められながらも、農林水産省の管轄となる。直接の管理も多くは『土地改良法』(1949年6月6日法律第195号)に基づいて設立の土地改良区が当たり、中には農林水産省直轄によるものも少なく無い。
発電用などの取水堰が堤高から『河川法』(1964年7月10日法律第167号)の規定するダムには該当しないにも関わらず、しばしばダムを名乗るに対して、堤高の16メートルを越える堂々足るダムでもそれを名称とする事例は希有である。設備をあくまで取水装置の総体、即ちHeadworksに見て堰単体では無いからなのだろう。中には堰を持たない取水口設備のみの施設も存在し、これも頭首工と呼ばれる。
その機能と運用の基本は、当然に河川水位を導水路より堰上しておくところに在り、洪水調節をも担うダム設備とは根本的に異なる。これらが突破的豪雨の多発する夏季には敢えて水位を低下させているのに対し、頭首工は水需要の大きい夏に最高水位を保持する。従って通常にはゲイトを閉じて自然に越流させている運用がほとんどなのだが、豪雨には直ちに開門しての放流を要し、また導水路への過大な補給を避けての水路水門の調節措置など独自の管理手法が存在する。

噴火湾へと注ぐ河川に在っては、流域に水田地帯の連続する長流川に3基の頭首工が設備されている。伊達市域の館山下頭首工、上長和頭首工と壮瞥町内の下立香頭首工である。道央自動車道や国道37号線に室蘭本線が通過する下流域の平野に通水しているのが、1967年に竣功の館山下頭首工に上長和頭首工であり、長流用水の名でそこに広がる水田地帯の約800haを潤している。米軍が1948年に撮影した空中写真には水田に混じっては畑作地の多くも見て取れ、長流用水はその転換に資したのであろう。
ところで、これら頭首工には永く魚道の設備されることはなかったのだが、近年の自然保護意識の浸透により2001年度までに追設工事が施工された。主にはサクラマスの遡上促進のためと聞いている。

礼文 (室蘭本線) 1996 にも書いた「北海道までやって来て稲作風景でもなかろう」との意識は、実は今でも抱いている。それとは相反するけれど、随分に高名となった長和の水田地帯を見下ろすこの位置も、要するにはそこが圃場と知れなければ良いのである。必然に刈入れの痕跡すら消滅する春先に立つことになった。
写真は、光線の程良い時間に走ってくれた8002列車。
景観に列車の存在を際立たせる深い屋根からの反射光は、それを銀色に塗っていた宮原区の編成ならコンテに計算出来た。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S  1/500sec.@f8+1/3 NON filter  Ektachrome Professional E100G [ISO160 / 0.5EV push]   Edit by LightroomCC on Mac.

倶知安 (函館本線) 1978

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徒歩の鉄道屋なのだが、撮影とのタイミングや運行頻度などからバス便が利用可能なら勿論乗っていた、とは以前の記事に書いたことがある。
均一周遊乗車券が使えた国鉄バスは機会の多く、洞爺駅前とエントモ岬に出入りした有珠中学校前と若生町停留所間に加え、豊浦市街とも往き来した伊達本線(豊浦駅-伊達紋別駅間)や、石狩湾に恵比寿岩を見下ろす西春香停留所と小樽築港駅なり銭函停留所(駅まではやや距離が在った)の間の札樽線(札幌駅-小樽駅間)には良く乗っていたし、北広島駅(東側に在った旧駅舎)と江別駅を直行出来た空知線(江別駅-恵庭駅間)は、椴山あたりと新夕張川橋梁との掛け持ちに便利だったと記憶する。
民間バスも、函館線普通列車の時隔を埋めた函館バス長万部線の森駅-長万部駅間ではあちらこちらで乗降し、時隔の空き過ぎていた旭川から塩狩峠へは道北バス名寄線の急行便を使っていた。
都内や近郊都市圏では確保されない定時性から決して乗りたいとは思わないバス便だけれど、列車で移動するばかりの旅先なら、渋滞の無い道路の法定速度に忠実な淡々とした走りには沿道の車窓を楽しませてもらったものだった。

倶知安峠を越えての倶知安駅と小沢駅の間もバスの運行頻度の高い区間だった。倶知安と岩内を結んだニセコバスの小沢線に加えては、同社による昆布温泉・ニセコ駅前-小樽ターミナル間路線も小沢駅前を経路としたからである。1978年12月号の「弘済会の道内時刻表」に拾えば小沢線の16往復に小樽連絡の9往復運行が見て取れる。但し、小樽方面は急行便であり、倶知安峠途上のワイス温泉やら峠下停留所で乗降しようと思えば小沢線に限られた。

雪晴れの強い陽光に峠下地区の山脚を往くのは、苗穂機関区キハ22の運用だった902D<らいでん2号>。
小沢で岩内行きを4941Dとして切り離せば、この区間は倶知安から普通列車の522D長万部往きに併結となる1両と倶知安止まり1両の2両組成が所定なのだが、スキーシーズンのこの日は蘭越までの<ニセコスキー>1両を併結しての3両編成であった。<らいでん>とは別に与えられた列車名称も、これが江別発着だった当時にはそれなりに意味も在っただろうが、札幌発着の一体運用となれば<らいでん>の増結車と何ら変わりは無い。愛称は誘客上の事由にて残されたものだろう。編成の真ん中の1両が当該臨時運用に当たる。
この日は函館からの41列車を未明の小沢に捨て、ワイス付近で峠を下る11D<北海>を捉えてから、小沢線のバスにて倶知安側の峠下停留所に降りたのだった。勿論、北四線踏切を目指しての目論みだが、肝心なことを忘れていたのである。冬期に除雪されないその位置まで、息を切らしての40分あまりのラッセルと覚えている。写真はその途上からのもの。

[Data] NikonF2A+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

洞爺 (室蘭本線) 1990

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静狩から30キロあまり続く、噴火湾北岸に迫り出した山塊の断崖を幾つもの隧道を穿って通過する区間は、虻田町大磯海岸でようやくに終わり、下り列車はクリヤトンネル坑内からの半径800メートル曲線を左に旋回しながら、ゆっくりと海岸線に姿を現す。この減速はその先の洞爺停車場手前、長万部起点40K885M地点に所在の半径400メートル曲線に速度制限を受けるゆえなのだが、如何にも難所を越えて来た安堵感を漂わすように見えて好きな光景だった。特に機関車列車にその感が強い。
断崖への長大隧道構築の困難は、長万部輪西間鉄道の全通が道内幹線では遅い部類の1928年を待たねばならなかった所以であった。けれど、豊浦-洞爺間(当時には辨辺-虻田間である)に限れば、延長の在る隧道掘削を避けて断崖下に路盤の選ばれており、まだ地形が許したと云うことなのだろう。ただし、それは噴火湾の浪害と切取法面からの落石や土砂崩落と引換えであった。

もっとも大きな災害は、それが鉄道関連に限らぬ年表の類いにも記録される程の規模だった1967年9月27日の土砂崩壊であろう。未明の午前0時18分頃、起点38キロ200メートル付近で秋霖期に続いた降雨に地盤の緩んだ切取部斜面が崩落し、約7000立方メートルの土砂が線路を埋めたのだった。これだけでも復旧に手間取る土砂だったのだが、その作業中の10月3日に現場は再度の大崩落に見舞われ、その土砂量は都合40000立方メートルにも及んだ。加えては崩落斜面の上部に巨大な岩石が不安定な状態にて残り、発破にて粉砕せざるを得ないなど復旧をより困難にさせていたのである。
函館山線も幹線として機能していた時代ゆえ、長距離優等列車には早速に迂回運転の手配が取られたものの、秋の繁忙期を迎えていた貨物輸送には、その線形からの低い牽引定数に、貨物幹線だった室蘭本線の代替を完全には果たし得ず、函館-室蘭(東室蘭)間にトラック代行輸送を実施した他、青函航路の空知丸と檜山丸(ともに初代)に民間からの傭船1隻を青森桟橋-室蘭港日通埠頭間に臨時運行させた。当初に車両渡船は車両甲板を板敷としたバラ積荷役であったが、後に未使用で保有していた橋梁向けの鈑桁を活用した可動橋を仮設しての貨車航送も行われた。これらにより、不通期間後半には貨物所定輸送力の75パーセントまでを確保したと云う。

豊浦-洞爺間では線増工事の進められていた時期であり、崩落に見舞われた線路は一年後には(将来に下り線となる)別線新線に切替られて大部分が放棄される運命だったのだが、事故地点はたまたまに将来の上り線として路盤の再利用が計画されていた位置にあたり、手戻りの無きように復旧の考慮され、その費用総額は418百万円であった。現行上り線で堅固な第二チャス落石覆いの構築された地点である。車窓に見る通り、ここに今でも海岸線までやや距離のあるのは、海まで流れ込んだ岩石・土砂の名残である。かつては路盤直下まで護岸が迫っていた。
現場の開通は10月20日の15時27分のことであり(*1)、室蘭本線は事故より24日を経て旧に復したのだった。なお、この間に連絡船2隻は46運行を行い11700トンの物資を航送と記録に在る。
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(*1) 復旧には幾つかの異なる記録(20日・21日・23日など)が残り、特定し切れていない。この時刻は、D51機と車掌車1両による線路確認列車通過を指したものかも知れない。

写真はクリヤトンネルを抜け、大磯の海岸を洞爺へと向かう8007列車<エルム>。
1968年9月28日に使用開始した新線である。前記の通り、事故より丁度一年後のことだった。復旧した既設線をこれに切替え、その間に既設線の一部路盤を活用しつつ上り線用の新線を建設したとは、ここに何度か書いている。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f11 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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