"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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礼文-大岸 (室蘭本線) 1996

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国有鉄道における線路等級には、「国有鉄道建設規程」(1929年7月15日鉄道省令第2号)の第二条に定められた[甲・乙・丙線]の区分と、国鉄の内部統制である「線路管理規程」(1964年4月1日総裁達第179号)に示された[1・2・3・4級線]の区分けが併存していたことはご承知と思う。文字通りに、前者は鉄道の建設や改良において、その線路の重要度に応じて投資の合理化を図るべく導入された制度であり、それの制定からの時間経過による輸送を巡る環境や情勢の変化に応じて、線路の構造や規格を見直した結果が後者である(*1)。
国有鉄道建設規程は、勿論に1987年4月1日付を以て廃止となったのだが、線路管理規程の方は国鉄の承継各社に引継がれて、その各区分は現在にも生きており、それに基づいて定められた「線路基本構造基準規程」に「軌道構造基準規程」などの国鉄当時の基準も基本的には受け継がれているものと思われる。これら線路や軌道構造を定めるとは、日常の保守においてその基準を維持することであり、正に管理の規程たる所以である。
.....................................................................................................................
(*1) 線路管理規程の制定以降に建設規程での等級は「線路種別」と区別されることが多々在ったが、この規程条文に「等級」「種別」の言葉は共に現れない。

線路管理規程第3条第2項に基づいての「線路区間別線路等級表」は1966年3月30日付にて定められた。これの合理的であったのは同一名称線区でも区間を区切った点にあり、線区事情に柔軟に応じたことであった。この際には、東海道・山陽本線は勿論のこと、東北本線の全線や常磐線の水戸まで、鹿児島本線の門司-久留米間などが1級線とされ、山線区間を除いた函館本線、上越線、中央本線などが2級線、道内で云えば宗谷本線や石北本線が3級線と定められたのだった。出自の簡易線など地域交通線の大半は言わずもがな4級線へと組み入れられた。
これの大幅な見直しの行われたのは制定から20年を経た1984年2月1日のダイヤ改正に関連してのことであった。ヤード系貨物輸送からの撤退により列車回数が激減したのだから当然と云えよう。これにより、道内貨物輸送の最重要幹線として全線が2級線に位置づけられていた室蘭本線は、長万部-洞爺間と沼ノ端-岩見沢間が3級線へと格下げられていた。函館本線の函館-長万部間も同様であり、函館-札幌間経路は洞爺を境に2級線と3級線に分たれたのだが、それはあくまで標準通過トン数ベースのことであり、青函継送の優等列車が疾駆する中では高性能列車の最高運転速度が規程本来に押さえられたでは無く、最大軸重も18tを維持する保守の行われたのだった。

礼文浜トンネルを抜けて新達古武トンネルを伺うのは、キハ281系列による5009D<スーパー北斗9号>。
1992年に試作され、1994年3月改正より営業に投入された、この北海道旅客鉄道による意欲的な系列は函札間を2時間59分で走破し、当時の電車列車を凌ぐ表定速度を実現したのだった。同社がその運転区間の線路等級を如何に定めていたかは公表のされなくなり知り得ないのだが、通しで確保された最高速度130km/hは、1級線の基準たる120km/hを上回るものだった。
一方で、昨今には優等列車の新幹線に移行した線区・区間にて再び線路等級降格の動きがあり、今度は規定どおりに最高運転速度の低下を伴っている。即ちは、軌道破壊の抑制による保守経費の低下を念頭にした措置で、優等列車の退避の無くなったはずの快速・普通列車が従来と同じか、より低下した表定速度で走っている。何やら、利用者を小馬鹿にした施策に思えてならない。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/1000@f8 Fuji SC-52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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石倉 (函館本線) 1980

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茂無部(もなしべ)川は、それを先住民族が pon-nayと呼んだとおりの細い水流である。にもかかわらず、これは茅部郡森町と二海郡八雲町との町界を為し、そこに所在する一連の集落の行政区画を分け隔てている。この水流を以て境界とするのは300年あまりを遡り、それは、松前藩が藩士への知行に替えて先住民との交易権占有を認めた「場所」の区分界としてであった。
「場所」の設置時期は明確ではないが1600年頃からと云われており、噴火湾西岸地域にはノタヲイ(野田追)場所とカヤベ(茅部)場所、少し遅れてユウラッフ(遊楽部)場所が置かれている。けれど、当初にその範囲が藩により明確にされなかったことから隣接場所との境界争いを度々に生じていたらしく、1791年と後年の記録ながら「東蝦夷道中記」には、ノタヲイ場所とカヤベ場所の境界争いが1695年に出された裁定にて、pon-nayこと現在の茂無部川に定められたと記されている。
同様の水流なら、近隣に現在の本内川や三次郎川、石倉川など幾つも存在した中での選定は、これが海岸段丘から岬状に砂浜の押し出た地形、当時に和人が稲穂岬と呼んだ位置に河口を持っていたゆえと思われる。つまりは同じような水流の存在には特定の容易だったからなのだろう。ちなみにノタヲイ場所北側に追加されたユウラッフ場所との境界はヤムクシナイ(山越内)南方の境川なのだが、ここに目立つランドマークは無かった。

さて、先の和人による稲穂岬の稲穂とは、道内に多数の事例のあるとおり先住民族のinaw(木幣)に対する当字であり、そこは彼らが神にinawを捧げた hasinaw-us-i(幣場)であった。そして、岬を回り込んだ段丘下にはコタンが所在して、これも pon-nayのコタンと呼ばれていたようである。
この集落に対する和人によるモナシベの呼称の起源は知り得なかった。pon-nayからの転訛と仮定しても、モナシ「ベ」が不明である。pon-nay-petでは「川」が重なってしまう。o-tes-petからのオトシベ(乙志部=現落部)との混用だろうか。享保年間(1716-1735)の著作とされる「蝦夷商賈聞書」にオトシ部、モナシ部の表記で記述されており、「場所」が請負制で運営されていた時代の1786年の「蝦夷草紙別録」に箱館の商人江口屋伊右衛門の請負としてモナシベ場所の名も記録されている。前述の「東蝦夷道中記」には「ノタオイ場所モナシベ運上屋あり」とノタヲイに在った運上屋がモナシベに移転したらしき記録もなされる。
18世紀後半には「場所」は先住民との交易区域から請負商人による直接の事業区域へと性格を変えつつあり、噴火湾西岸地域でも、それまで交易や漁労の度に出向いていた和人の定住化が1764年の津軽からオトシベへと移り住んだ漁家3戸を最初の事例として進行すれば、運上屋を中心に番人が常住するようになり、大規模化した漁場には番屋が開設されて先住民は労働力としての和人への隷属構造が形成されて往くのである。運上屋のモナシベ移転も、そこが中心漁場となったことを示し、従来からの住民に加えて近隣のコタンからも使役のために集められもしたであろう。19世紀半ばの松浦武四郎らの記述によれば、20軒ばかりの全てが漁家であり和人とアイヌ民族が混住していたと云う。とは云え、そこに移住した和人たちもまた幕府による経済構造の下層に位置したに違いなく、先住民とどのように共存したものか興味深い。

石倉から落部へのほぼ中間地点、湾岸のR=600曲線を旋回して往くのは104列車<ニセコ1号>。
無煙化されてしまえば、スロ62の組成を除き外観上に普通列車と大差なく、この時期に熱心に撮った記憶は無い。本来に機関車次位には、[北東航21]の隅田川区オユ10の姿が在るはずだが、遅延などの事由にて前日の418列車からの継送の出来なかったものか、護送便である[札航1]の札幌区スユ13だけが従っていた。
段丘斜面を路盤まで続くのは枕木廃材による保線用の通路。使われなくなった今もクマザサの薮に埋もれているはずである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f5.6 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

釧路 (根室本線) 1979

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釧路駅前から徒歩でも間近に位置する幸町公園に「北海道鉄道千哩記念塔」なる碑が建てられている。永年の鉄道屋とは云え、この手の鉄道碑を巡る趣味は持ち合わせていないので訪ねたことは無い。
最近には、折からの「鉄道ブーム」とやらに俄鉄道リポータからの報告がWebに散見されるのだけれど、自ら調べたでもない受け売りの情報が語られ、それの誤っているばかりか、肝心のことが記されていないので書いておきたい。

この碑は、1896年に北海道庁臨時北海道敷設部の技師となり、1898年11月5日にそれが鉄道部に改組されると部長に就任した工学博士田辺朔郎が、1896年公布の「北海道鉄道敷設法」を根拠に計画・建設を推進した道内鉄道網が、1880年の幌内鉄道以来に延長1000マイルを越えて発展したことを回顧し、退道後に奉職した京都帝国大学の学長をも辞し、各地の鉄道建設事業を指導していた1927年3月に私費にて建立したものである。田辺本人は、自らが経路選定に原生林を踏査した多くの体験の中でも難行であった狩勝峠(彼がその命名者でもある)への建立を希望したようであるが、事由不明ながらそれの叶わず、これも彼が道東での鉄道起点に選定したことで発展した釧路市が誘致を申し出たのだった。
市内鶴ヶ岱の春採湖を見下ろす丘の一角に、1000年の風雪に耐えることを願って石材で築かれた塔壁の四方には、自筆による「明治15年11月、手宮-幌内開通から始まり、明治45年9月、釧路-旭川間開通、そして大正5年5月延達千哩」との碑文や、当時の釧路市長からの寄稿を刻んだノルウェイ産エメラルドパールの額石が埋込まれていた。そして、その塔中には当時の記録資料や文献が銅製の箱に収めた上で安置されたのだった。
ところが、戦後1958年に至り、釧路市立東中学校(現幣舞中学校)の拡張により解体・撤去されてしまう。碑石は保管され、1963年には同じ鶴ヶ岱に再建の叶うのだけれど、肝心の銅箱に収められた文献は関係者らが勝手に持ち帰ったものか、散逸し行方不明であり、その責任追及もなされぬままである。鉄道史研究には貴重な一次資料であったろうに、文化に敬意を払わぬ行政により失われたとして良い。
再建されたは良いけれど画竜点睛を欠き、やがて忘れ去られ草に埋もれるままの記念塔は、釧路鉄道管理局の手により、鉄道開業95周年にあたる1967年10月14日の「鉄道記念の日」に記念事業の一環として釧路駅前広場の一角に移設されるも、ここでも後の広場の整備・拡張のため、現在の幸町公園に再々度移設されたのである。
そこが、かつての初代釧路駅、1917年からの初代浜釧路駅構内の一部だったとするのが事由らしいが、より正しくは1952年度まで釧路機関区が所在した位置である(1953年3月14日付にて移転)。
なお、建立当時の石積の形態や土台の造作は移設の都度に失われている。特に1963年の再建時のものはオリジナルと似ても似つかない。

さて、碑文で田辺は延長1000マイル到達を「大正5年5月」とし、実際にこの1916年5月29日には札幌を始め函館や釧路でも「北海道鐵道千哩祝賀會」の開催されたのだが、この日を以て1000マイルに達した事実は無く、この時期・日程の選ばれた事由は調べ得なかった。
確かに、前年の11月1日付での湧別軽便線下生田原(現安国)-社名淵(後の開盛)間開通にて、官設・国有鉄道線は972マイルとなり、私設鉄道も12月1日の登別温泉軌道の開業にて30マイルに達して、これを合わせれば1000マイルを記録していたものの、国有線のみでは、1916年11月1日に開業の宗谷線小頓別-中頓別間と11月21日の湧別軽便線社名淵(後の開盛)-下湧別(後の湧別)間を待たねばならなかった。
当時の中外商業新報もその1916年5月29日付社説にて、これを祝賀するとしながらも「厳格なる計算に於ては一千哩に達せざるに拘わらず、北鉄一千哩と称し祝賀会を開く、余輩其意の在る所を知るに苦む」と書いている。
なお、開業延長実績は「北海道國有鐵道建設誌」(1915年鉄道省北海道建設事務所)所載のデータに依った。

1917年12月1日に、当時の市街地外れの原野に移転の釧路停車場は、貨物扱いの旧駅存置を前提にしていたから、極めて単純な通過駅の配線だったと思われ、それは雄別鉄道の接続や浜釧路の仕訳線不足により側線を増設しての貨車操配の時代を経たにせよ、広々と端正な構内の佇まいだった。配線の整理されてしまった現在には余計にそれを感ずる。
上り本線から根室方に進出して往く列車は1413D<ノサップ3号>。
1975年に構内を横断していた踏切に替えて架設の巴人道跨線橋は、今でも構内を見渡すビューポイントであろう。側線にはキハ12や21も見える。キハ12は池田機関区からの疎開車。勿論に全て廃車前提の休車中の姿である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/15sec.@f4 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

礼文 (室蘭本線) 1996

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稲作の風景と云うのは日本の鉄道景観の主要な一部に違いなく、それは近代の植民地たる北海道とて例外ではない。
道南から道央へと北上する鉄道の沿線は稲作地帯として良く、函館本線なら桔梗から七飯、渡島大野へ続く函館(大野)平野、落部に野田生の扇状地、黒松内の先で一瞬垣間見る朱太川の流域、熱郛の周辺、目名から蘭越、昆布への尻別川流域、岩内平野最奥の小沢付近、銀山から望む余市川の谷底平野、然別から仁木、余市の平野と、次から次に水田の車窓が連続する。山線と通称される区間でも、山間の谷間は水田なのである。
道内稲作の中心地域とすれば、銭函で達して深川まで続く広大な石狩低地に神居古潭を越えた上川盆地となろうが、例えば蘭越町でも1870haの水田に248戸の米作農家を擁して、2014年度なら10400トンの生産実績があり、それは大野平野の北斗市に七飯町を合わせたものより大きい。
室蘭本線も、太平洋岸を進む室蘭から苫小牧の区間には皆無なのだが、大築堤で礼文へと下る礼文華川流域、車窓からは見えぬけれど小鉾岸川の谷に、洞爺から北入江信号場への山側緩斜面、稀府の鉄道林の向こう側などには小規模ながら水田が所在し、長和付近の長流川扇状地にはまとまった田園風景が広がる。そして、追分から先の長沼低地は石狩低地へと続く穀倉地帯である。

上野からの夜行列車は、東北線を北上するにしろ奥羽線経由にしろ夜の明けての車窓には延々と水田風景の続き、青函を渡ってまでそれもなかろうと思っていたものだから、函館山線の平野部や札幌以北区間に立った覚えは無く、かつてには稲作とは無縁の道北や道東ばかりを目指していた。1988年に札幌までの本州直通寝台列車群が走り始め、足は再びに道南に向いて、初めて北海道の水田の風景を画角にしたのだった。

噴火湾岸から礼文華川沿いに続く緩やかな傾斜地は、地形学上には河岸段丘だと云う。川筋の両岸に段丘崖の見当たらず谷底平野然としているのだが、ここでは海面の低下した最終氷期に生成された段丘が後氷期の海面上昇にて緩やかとなった水流に土砂の堆積した結果らしい。段丘面は埋没しているのである。沖積平野同然だからなのか、そこには水田が開かれた。室蘭線の線路は内地の生活者にも違和感の無い日本的風景を走る。
写真は、礼文華山トンネルからの大きな盛土築堤を駆け下りる9009列車<夢空間北海道>。
次世代寝台列車向け試作車3両とオロネ25 500番台に続くのは、スハネ25 700番台の2両にオハネ24 700番台。ともに博多<あさかぜ>廃止による余剰車の活用だった。画角の幾度もの既出はお詫びするほかないが、全て別の撮影セッションから選んでいる。

礼文の平野はそれの尽きるここにも水田が開かれる。築堤の向こうは稲の稔りの色である。
豊浦町の稲作は、隣接の小鉾岸川流域に、貫気別川の上流の一部でも行われるけれど、作付面積は41haに過ぎず、生産も210トン程度ではある。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f2.8+1/2 NONfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopCC on Mac.

稀府 (室蘭本線) 1997

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北海道線における鉄道林なら大半が防雪林に区分される吹雪防止林であり、少雪地域である噴火湾北岸の室蘭本線では礼文華山塊の渡島側にあたる静狩付近に設備されるだけなのだが、同線には、もう一箇所の鉄道林が所在する。稀府から黄金への長万部起点61K600M付近から63K500M付近までに続く、それである。
この例については、以前の記事 黄金 (室蘭本線) 1996 で、飛砂防止林ないし防風林として育成と推定したのだが、その後に同所で撮影のロールを眺めていたところ、ひとつのカットでマルで囲まれた「ふ」の記された鉄道林標識の写り込みに気がついた。1951年に国鉄の部内規程として制定された「鉄道林管理手続」(1951年5月19日総裁達223号-4月1日に遡って適用)で、それは吹雪の「ふ」からの「ふぶき防止林」を示す記号なのである。
これで、ここの鉄道林も吹雪防止林とは知れたものの不可解ではある。この地域とて吹雪くことはあるだろうし、実際に後背の山稜斜面からの猛烈な吹き下ろしを北舟岡の海岸線などで何度か体験している。けれど、降雪量からは列車運行を妨げるほどに吹き溜まるとも思えない上に、通常にトドマツやドイツトウヒなどの樹種が用いられることを思えば、明らかに樹高の不足している。ここでは落葉樹のミズナラが主体なのである。何よりも、設置はこの区間だけに限られる。

1947年に、当時の札幌鉄道局に置かれた営林課以来の国鉄部内資料を閲覧出来れば、それなりの情報も得られようが、叶わぬことゆえ以下は推定に過ぎないとお断りする。
環境省が公表している2万五千分の一植生図の本輪西図輹によれば、ミズナラの植生はこの地域での自然林と読める。牧草地や畑作地に開かれた中でその周囲に残された樹林帯は、ことごとくシラカンバ-ミズナラ群落なのである。とすれば、この鉄道林は育成されたものではなく、ここに鉄道の開通する以前からの存在ではないのか。即ち、一帯を覆っていたシラカンバ・ミズナラの原生林を切り開いて鉄道の建設されたのであろう。周辺地域も次第に伐採され農地に姿を変え往く中で、在る時点で鉄道側が沿線部分を鉄道林として買い取ったものと思われる。おそらくは、ここから稀府やその先にも原生林の続いていたのだろうが、農地や居住用地に開拓の進んで、その時点にて残されていたのがここだけだったのではあるまいか。求められた機能は、やはり吹雪への備えと云うよりは防風であったろう。
人為的な育成ではなさそうなのだが、そうとばかりも云えない。敗戦直後に米軍の撮影した空中写真に見れば、戦時中の燃料不足からかなりの面積で伐採の進んだ様子の見て取れる。現状への復旧は自然林に樹種を合わせての植林の行われてのことである。
なお、前述の「鉄道林管理手続」以下、営林関係の国鉄規程類では「吹雪」の表記は用いられず、すべて平仮名での「ふぶき」となっている。

陽光に稀府鉄道林の中を往くのは、3065列車。冬枯れのふぶき防止林とは本来にあり得ない光景なのだが、有珠岳や真狩山を背にして立っても好きな鉄道景観ではある。
この鉄道林は区分の境界は知らぬが、稀府方(起点方)から1号林、2号林以下の順に付番されている。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500@f4  Fuji SC42 filter EPP Edit by LightroomCC on Mac.

富浦 (室蘭本線) 1984

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以前の記事 富浦 (室蘭本線) 2008 にも記したとおり、蘭法華岬を先住民族はリフルカ(Ri-hur-ka=高い丘の上)と呼び、そこは彼らのハシナウシ(hasinaw-us-i=幣場)でもあった。海面からの比高60メートル程のこの岬は、先住民には安易に近づくことが戒められた神聖なる地であり、その基部にはアフンルパル(ahun-ru-par=入り口の意)も存在したのである。

原初的アミニズムと云われる先住民族の信仰には門外漢ゆえ、受け売りをお断りするが、彼らのあの世とは地中深くに存在するポクナモシリ(pokna-mosir=下方の国)であり、対しての現世はカンナモシリ(kanna-mosir=上方の国)とされる。死者の魂は神となってポクナモシリに帰り往き、神の生活に飽きた頃に人間や獣などに再び姿を変えてカンナモシリへとやって来るのだと云う。
アフンルパル(若しくはアフンルパロ=和人の聴き取りの違いによる)とは入口を意味する言葉に過ぎぬのだけれど、多くは伝承を伴い、この世を去った人々の暮らすカムイコタン(Kamuy-kotan=神の国)たる地下のポクナモシリへ繋がる通路と伝えられる。ゆえに自然の洞窟や横穴が対象なのだが、ここは、上縁部での長径の約30メートル、短径の約22メートルの楕円形を成し、深さ5メートル程に底部長の約10メートルの擂鉢状を呈する明らかな人為的掘削抗に加えて、6〜7段の「奇妙な階段」が周回していたと云う。道内各地に残るアフンルパルの遺構の中でも人工の、しかも竪穴は特異に違いない。何らかの祭祀的儀式の場とは想像に難く無いが、それがどのようなものであったかは解明されていない。何れにせよ、この岬は神となった人々と交信する祭祀の場であると同時に、死者とも見(まみ)える霊域でもあったのだろう。もっとも、あの世への入口とする伝承は、それの「地獄穴」との説明を含め、あくまで和人を近づけぬための口実だったとする説もあり、その祭祀とは、より呪術的なるものだったのかも知れない。

1955年に知里真志保や山田秀三らにより、それを覆っていた植生を取り払っての調査・計測が行われ、前記のデータはその際のものなのだが、遺跡保存策の無い中での破壊を恐れて発掘を含む本格調査は先送りされていた中で、アイヌ文化への尊厳意識の無い時代だったゆえか、僅か数年後には国道36号線富浦バイパス建設の用地に供され、1967年までには南側の四半部分が失われてしまった。今、切取にて通過する国道の北側法面を直登した位置に、その遺構が眠っている。
一度は見物をと思いながらも、身の丈ほどの熊笹との延々の格闘を覚悟せねばならないここでの撮影では、そんな気力の失せてしまって果たせてはいない。
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=参考文献=
あの世の入口―いわゆる地獄穴について― : 知里真志保・山田秀三(1956年)「北方文化研究報告 第十一輯」所収
   
写真は、富浦の海岸線を往く3D<北斗3号>。
北海道におけるキハ80系列運用の末期にあたり、既に札幌運転区の配置は無く、函館運転所の66両が7両基本編成-5運用、附属2両組成-3運用に、使用41両/予備25両で運用されていた頃である。異常に多い予備計上の内10両は1984年2月改正での保留車で、第二種休車を経て同年夏までに用途廃止が通達された。
運用列車は、<おおとり>に<北斗> <北海>の計5往復列車だけなのだが、キシ80は全てで営業していた。しかも、北陸特急などは紙皿を用いた簡易営業となっていたにかかわらず、日食北海道による手抜きの無い接客であった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

北舟岡 (室蘭本線) 1990

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今、北舟岡に降りると駅前広場と呼ぶには躊躇する空き地の広がり、段丘面上の道道779号南黄金長和線(旧国道37号線)へは土道が続いている。これは伊達市の都市計画に基づき造成されながら、その後の情勢変化にて、謂わば打ち捨てられたものである。
その計画決定は古く、1950年代からのことになる。1890年代に通じた長万部室蘭間道路に始まる一級国道37号線の新道バイパスが市街地北側通過と決定し、幹線輸送力増強を目指した国鉄の第二次五ヶ年計画下で、旅客も便宜的に扱う北舟岡信号場の新設となれば、将来の駅昇格を視野に新国道よりそこに至る都市計画街路が1962年3月13日に公示されたのである。そして、この街路西側までが市街化区域(当時にこの用語は無い)とされ、早速に団地造成の土木工事も始められた。後の見晴台団地である。北舟岡の駅を核に駅前通りを整備し、段丘上への市街地形成を誘導する目論みだったろう。
1960年代を通じての経済成長、70年代に地域的にも続いた都市部への人口流入と核家族化により、伊達市の人口は1970年に30117人と3万を越え、1980年に3万5千人に達して以降現在まで横這いとなっている。道内から地方都市から人口流失の続く中では異例とも云え、土地区画整理事業として1976年に始められた「舟岡シーサイドニュータウン」造成を経て、伊達市が市街化区域とした舟岡町は、2010年の国勢調査にて2734世帯、6770人の人口を擁するまでに市街化の進んだ。
そこは基盤整備も十分に為された住宅街を形成して、市の先見は功を奏したとして良さそうなのだが、この間のモータリゼイションの進展には鉄道は見放され、北舟岡は駅への昇格どころか信号場の廃止には辛うじて仮乗降場にて存続したのみだった。前記都市計画街路の道道より北の部分は植生も整備された住宅街の街路となっているのに対し、駅へと通ずる南側は土道のままに残された所以である。

軌道インフラは優等旅客や貨物輸送に必須なのだから、室蘭を起点に伊達紋別との間での短編成気動車によるフリークエントサーヴィスは新たな投資無くして可能であり、同区間運行のバス便から一定の乗客を奪えそうにも思えるが、道南バスのその路線すら閑散線とあっては北海道旅客鉄道の動くはずも無い。

写真は、北舟岡の旧信号場場内に差し掛かる9002列車<トワイライトエクスプレス>。
一般多客臨としての運行開始から間もない頃である。スロネ25の未組成でそれと知れる。なお、列番の8000番台付番はこの年3月改正からのことであった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

帯広 (根室本線) 1976

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1948年7月に豊橋市からの申請を承認したことに始まる「駅舎およびその付帯施設に接着する施設の一部を部外者に使用させることを条件として、その建設費の一部または全部をその部外者に負担させて建設する駅施設」(鉄道辞典下巻1677ページ-1958年日本国有鉄道)である民衆駅の、全国で42例目(道内では札幌・釧路・旭川に続く4例目)として、1965年8月に着工し66年11月16日に使用開始の帯広駅舎は、この方式による建設の末期にあたり、公共企業体として発足間もない日本国有鉄道の窮乏した財政から進まぬ戦災駅舎の本格復旧や、復興の都市計画からの移転や改築を自治体から求められての資金導入承認とは既に状況の異なっていた。国鉄は、この時期に至ると承認団体の駅ビル運営による収益性に着目し、自らの直接出資を伺って国会に国鉄法の改正を働き掛けていたのである。
戦災での焼失を免れて老朽化し、戦後の輸送量増加に狭隘となっていた帯広駅舎建替には、国鉄が民衆駅制度利用を帯広市に働き掛け、1965年2月に市を筆頭株主とする資本金2650万円の帯広ステーションビル株式会社の設立に至るも、国鉄も鉄道弘済会・日本食堂など関係4社をダミーに用いて資本参加し、それは資本比率で帯広市の22.6パーセントに対して合計で41.9パーセントに達して主導権を留保していた。
これにて4代目駅舎となったRC構造地上3階、地下1階のビルディングは1階部分を駅業務施設とし、地階の機械室の他はステーションデパートを名乗る単体小売店(テナント)の集合店舗、2階半分を帯広ステーションホテルのフロントにロビーと事務室に充て、残り半分に貸席と飲食店からなる帯広老舗街が入居、3階が和室19室・洋室17室の客室に結婚式場のホテル施設とされ、総床面積10061平米の内、2910平米を国鉄が、7151平米をビル会社が使用するところとなった。
ビル会社の経営は、日本経済の高度成長期とも重なり、デパート、ホテルともに順調に推移し、特にホテル運営は同社収益の6割を占める安定事業となり、1972年12月31日には4階部分を増築しての客室の増設もなされていた。

小樽-釧路間普通列車、1975年に<からまつ>と命名される夜行で乗り降りしていた帯広に、場合によっては宿を取るようになるのは、その頃のことで、当然にステーションホテルを選んでいた。手元に残る領収証には宿泊税込みにて2100円とあり、ベッドにデスクにテレビ(しかもコイン式の有料)の在るだけの簡素な部屋ながら、当時の貧乏旅行にあっては大変な贅沢だったと記憶する。但し、これがバス付の部屋だったか、バス無しを選んでのことかは失念している。
写真は、帯広場内にゆっくりと進入して来る5D<おおぞら3号>。函館から8時間を走り続けての到着である。ホテルにチェックイン後に必要機材だけを手に構内に出るのが恒例であった。
先日、函館 (函館本線) 1990 にも書いたとおり、昼夜分たずに構内作業の行われていた構内は照明塔の灯りに煌煌と照らされ、日中と同じ感覚で写真の撮れた。

帯広ステーションビル株式会社においては、開業時に続いて1969年、1972年にも増資の行われた結果、その資本金は2億2千万円となって、5200万円を出資に至った帯広市は23.6パーセントの出資比率にて筆頭株主に違いはなかったのだが、国鉄系4社も合わせての41.9パーセントにも変わりなく、それは四半世紀を経て、資本を引継いだ北海道旅客鉄道の戦略に乗せられた挙げ句の自己破産の遠因ともなった。駅高架化に際して建設した高架下東西2館の施設は、今や北海道旅客鉄道子会社の所有である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/60sec@f1.8 NON Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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