"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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渚滑 (名寄本線) 1970

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蒸機時代からの旧い鉄道屋ならご存知かも知れない。塩狩峠で一日を過ごした翌日を函館山線、例えば塩谷あたりと決めた場合、当時からつい最近の1989年まで、この200キロばかりの地点間を夜行列車を宿替わりに移動出来たのである。1972年3月改正ダイヤなら、塩狩を18時22分の323に乗れば、塩谷到着は翌朝8時05分の524Dで104列車に十分に間に合い、この間に何処かで一時的な「半駅寝」するでは無く、ずっと車中で過ごせた。
そのカラクリは名寄本線に在った。323は名寄へ20時03分に終着する。その23分後には札幌からの4605D急行<紋別>が追いついて、20時30分発のこれに乗換えれば、興部から普通1625Dとなった列車は遠軽着23時46分で直通し、23時53分に網走から到着する518列車<大雪5号>を捕まえられたのである。この逆コースも利用価値の在り、遠軽4時04分到着の517列車には4時21分発の名寄行き622Dが接続して、興部着の5時56分には興浜南線始発列車に乗れた。317列車<利尻>の利用なら午前2時前に名寄で降ろされて半駅寝の上、南線始発には到底間に合わない。
北海道均一周遊券(正しくは北海道一般用均一周遊乗車券第一種)の利用ならでは経路だったのだが、名寄本線遠軽口での始発・終着列車であった622Dと1625Dは、オホーツク岸の紋別や渚滑と札幌間を夜行急行での連絡目的の設定であり、4時台・23時台のルーラル線区としては異様に早く遅い発・着時刻もそのためだったのである。紋別や渚滑と札幌とは遠軽を回ると少しばかり遠回りだけれども、1967年4月の旅客制度改正から渚滑線内を含む名寄本線の紋別-渚滑間と新旭川以遠(旭川方面)の区間は選択乗車区間とされ、距離のやや短い名寄経由の運賃にて遠軽経由も認められていた。
同様の列車設定には、317・318列車<利尻>と音威子府で接続した天北線の721D・730Dが在り、浜頓別のほか興浜北線直通車も併結して北見枝幸と札幌間も夜行移動の有効圏内であった。遠軽接続と同じくオホーツク岸の都市であるのは偶然ではなく、内陸を経路とした石北・宗谷線夜行と沿岸とのアクセスは必須の要件だったのである。それは、名寄・天北線ともにかつてには網走へ稚内桟橋への夜行長距離列車の往来した幹線だった名残とも云えた。
余談ながら、この当時、前記のような明確な接続は取られなくとも、池田や美深、名寄、長万部など深夜帯に夜行急行の着発した接続駅では、支線区の最終でやって来て上りを待ったり、未明に下りを降りて始発までを過ごす乗客の多々見られたものだった。今は、全てが昔語りである。

名寄本線内での大駅とすれば紋別となろうが、規模ならば渚滑線を分けた渚滑が上回っていた。名寄上下本線に渚滑線の使用した副本線の他に貨物側線5線は、豊富な林産資源の輸送線だった渚滑線との貨車操配には必要な配線だったのだろう。確かに、構内にはその中継車や翌日の所要車は勿論、自駅の使用車に停泊車など多くの貨車が停まっていた。
蒸機の行き交う光景。名寄に向けて発車を待つ1692列車を横目に北見滝ノ上からの1792列車が到着する。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

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白樺 (深名線) 1981

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深名線の名寄-朱鞠内間は、白樺 (深名線) 1981 に記した通り、1928年に設立の雨龍電力株式会社による雨竜川の電源開発計画に始まる。この電力会社は内地資本たる王子財閥の事業子会社であり、王子製紙苫小牧工場への電力供給に加えての売電の営利事業は、軍部が膨張主義に独走を始めた時代に電力増強は国策そのものと捉えられ、1932年5月に成立の挙国一致内閣は、『鉄道敷設法』(1922年4月11日法律第37号-通称の新鉄道敷設法)に法定されながら放置されていた名寄-雨龍-羽幌間鉄道(同法別表143号)の建設を鉄道省に命じたのである。建設は電源開発計画の進行に組み入れられ、実質はほぼ雨龍電力株式会社の専用鉄道だったと見て良い。

朱鞠内-名寄間の全通は1941年10月10日と記録されるのだけれど、これはあくまで一般運輸営業の開始であり、1935年8月に着工の朱鞠内から宇津内の区間(西第一工区)は、宇津内から第二堰堤工事位置までの専用線と一体に1937年8月には竣功し、おそらくは朱鞠内場内から第一堰堤位置までの専用線も同時期には通じたと思われ、1937年11月に工事実施認可を得て12月より工事用通路などの準備工事に着手していた雨龍電力株式会社は、1938年の春から夏にこれを終え、直ちに堰堤排水路ならびに遮水壁基礎掘削や、連絡水路隧道、各竪坑横抗水槽、余水路ほかの排水路工事など基礎的工事に着工しているから、早速に建設資材運搬列車の運行されたのに違いない。
2400haあまりに及んだ湛水予定域の原生林の王子製紙による伐採も、積雪期を通じて行われ、1936年の融雪期を待って着工とされた宇津内から白樺の区間(西第二工区)も1938年4月に竣功すれば、すぐにも原木輸送に供されたはずである。

堰堤から発電設備に至る全ての工事竣功による湛水と発電開始の1943年度を勘案すれば、1941年の深名線全通開業とは電源開発関連の資材や伐採原木輸送の大方を完了してのことになる。つまりは国費で私企業に提供した線路を沿線開発目的に転用した訳である。
実際に白樺駅付近には鉄道官舎のほかにも居住区画の造成整備が行われ、造材関係者や開拓入植者が移り住み、ここに限らず沿線への開拓民には初期移民の子弟が多かったと云われている。1930年代ともなれば彼らの次男や三男が新たな土地を求めたのであろう。泥川流域の緩やかな傾斜地が開拓適地と見られ殖民区画も引かれていたのだけれど、その冷涼な気候には収穫の阻まれ、まもなくに全戸が離農と伝わる。
白樺集落の最多人口の12戸100人は、皮肉なことに全道に大きな被害をもたらした1954年の台風15号(洞爺丸台風として知られる)による雨龍山地の風倒木処理に賑わった1955年から翌年に掛けてのことであった。

ルーラル鉄道にあまり興味を持たぬながら、蒸機の去った後にも深名線の朱鞠内湖北岸区間には幾度か通っていた。二度の夏場を除けば全て積雪期ばかりを選んだのは、厚く氷結し深雪の雪原と化す湖面上にポジションを採れるゆえである。
1977年度より白樺は冬期間に営業の休止されており、北母子里に降りて、通路はそれしかない線路を積雪に足を取られながらも延々と歩いたものだった。
北母子里から6キロばかりを歩いた泥川橋梁近くの盛土区間。列車は944D、朱鞠内行き。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

函館 (函館本線) 1990

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駅なら夜間でも(動体が)撮れるのは1980年代半ばまでは常識だった。煌々とした構内照明の大駅ならISO400でも絞り開放では1/125秒が切れることもあったし、僅かな灯りの構内でも画質の許容出来る範囲に在ったISO800まで押せば何とか写し止められた。例えシャッタ速度の1/30秒程度しか確保出来なくて被写体のブレても夜間動体撮影の表現に違いなく、寧ろその方が本筋ではある。
ここにも幾度か書いているが、これの揺らぎ出すのは、国鉄が貨物輸送をヤード作業を廃した直行輸送への転換を決めた1984年2月改正以降のことである。車扱からの大幅な撤退により夜間に作業を要していた組成駅や中継駅のほとんど全てで、それの撤廃されれば構内を照明するまでもない。当時にこの変革の意味するところを理解し十分に承知もしていたのだけれど、構内照明の減らされ落とされ、闇に沈み込んで往く駅の次第に広がるには困惑した覚えが在る。
旅客輸送においても、運用合理化の要求からダイヤ改正毎に入換駅や滞泊駅が集約され始め、それは1987年4月の国鉄の分割・民営化以降には極端なまでに進んで、照明に浮上する構内など希有な存在と成り果てた。

ここ函館についてのそれは、1988年3月改正での青函貨車航送廃止による。昼夜分たず行われていた組成、分割、入換をともなう航送の作業が、この改正を境に無くなったのである。終航後も暫くは構内照明も変わらずに点されていたが、同年8月の連絡船の遊覧運行終了を待って着工し、最終的には現行駅舎の使用開始まで14年あまりを続けられた、函館市都市計画と連動した構内改良工事の過程にて照明塔は全てが撤去されてしまった。この一連の改良工事については、函館 (函館本線) 1988函館 (函館本線) 1978 に書いている。
ロープウェイで函館山に登頂し、かの高名な夜景を眺めれば、照明塔の残された函館運輸所の一角を確認できるものの、かつてには函館桟橋とともに一際明るく視界に目立った構内は、ホーム照明を遮る上屋群の存在でそれと知れるだけである。

写真は、函館に進入する6列車<北斗星6号>。
長万部で2と4列車をバルブで収め、30分後にやって来る最終の<北斗>で函館に移動、6に8008列車を待ち構える手順は幾度か繰返した。快速<ミッドナイト>で折返したいところだが、それは時刻的に叶わず、下り<はまなす>を待つことになっていた。
第4乗降場が運用を開始し、第2・第3乗降場の旧桟橋側が使用停止となった頃で、既に照明塔の消灯しており、運転所から漏れ届く灯りだけが頼りだった。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/30sec@f2.8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

京極 (胆振線) 1969

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明治維新とは、民衆を蚊帳の外にした軍事クーデターに過ぎなかった。それの革命とする向きもあるが、人民の関わらぬ革命などあろうはずも無く、この薩長政権の私利私欲による搾取の始まりは日本近代史における不幸と云わざるを得ない。
民衆支配の道具として天皇を担ぎ出した政権にとって、それに繋がる公卿や薩長連合に組した大名家などによる支配層の形成は急務であり、西洋を模した階級制度である華族制度の制定が、1869年7月25日の版籍奉還と同日に「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」とする行政官布達54号にて出されていた。
そして、脆弱な財政基盤にあっては彼らに人民搾取の利権を付与することで維持・育成を図らざるを得ず、天皇の言とする「蝦夷地開拓御下問書」を以て北海道の植民地化を正当化、1886年2月の中央官庁としての北海道庁成立後の同年6月に、自らが伯爵であった伊藤博文の内閣により制定された『北海道土地払下規則』(1886年6月29日閣令第16号)や、大隈重信の息のかかった松方内閣時代の『北海道国有未開地処分法』(1897年3月30日法律第26号)などにより、官有地の華族への無償ないし極めて低価格での払下の行われ、各所に途方も無い規模の華族農場が成立したのだった。
北海道は、政権に従う謂れの無いアイヌ民族にしてみればその利権に植民化された地であり、小作人に送り込まれた民衆には殖民を強いられた地と云えよう。
巨大地主となった彼らは、次に農場生産物の商品化に鉄道の敷設を要求し、その意を受けた政府は、道内幹線鉄道建設を法定した1896年の『北海道鉄道敷設法』での対応が困難と見るや、1910年に国会の協賛のみで建設を可能とする『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)までも成立させるのだった。

四国丸亀京極家に連なる子爵京極高徳が、真狩山の北麓、倶知安村ワッカタサプ(wakka-ta-sap)番外地の原野に800haの土地を得、京極農場を開いたのは1897年のことであった。この小物華族は、やや出遅れの感があり、そこそこと云った規模もそのせいだろう。当然に現地に管理人を置く不在地主で、主に北陸地域から小作人を入植させていた。
道庁は1903年に京極農場の土地を一部返還させて公設市街地を開いており、農場経済を背景に順調に人口の増加していたものだろう。
ここへの鉄道も軽便鉄道法に準拠した東倶知安線として1917年8月に着工され、第一次世界大戦による物資不足に難渋したものの、1919年11月15日に運輸営業を開始した。終点停車場は京極農場内に引込まれるごとくに置かれ、それゆえに「京極」を名乗り、営業線名も京極軽便線とされた。当時にワッカタサプ川対岸に位置した市街地は、虻田郡東倶知安村の中心として字東倶知安市街地と呼ばれて、郵便局も東倶知安局だったから、これは駅名・線名だけのことであった。
この鉄道の建設は、内地の新興財閥たる三井が1916年にワッカタサプ川上流へ稼業した褐鉄鉱山からの鉱石搬出線としての側面の強いのだが、鉄道省には沿線大地主である京極高徳への配慮も強く働いたものだろう。
1940年に至り、東倶知安村が村名を京極村と改めるのは、倶知安と繋がる基幹輸送路だった鉄道の駅名からの派生と思われ、地主京極家から直接の由来では無さそうだが、1938年に開放されていたとは云え、かつての支配者の名を村名とするなど、軍国主義に向かった時代背景ゆえのことなのだろうか。些かに無神経極まるとしておく。

写真は、京極手前での1890列車。勾配には場内まで力行して往く。
頂きを雲に覆われた真狩山は残念だったけれど、それでも存在感の感ぜられる山ではある。

[Data] NikonFphotomicFT+P-AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1980

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ルペシペ(ru-pes-pe)は「道に沿うて下るもの(川)」の意であり、転じては源流へと谷を遡り分水嶺を越えて反対側の水流源流域へと至る通行路を指した。夏に越えて往く道をサクルペシペ(saku-ru-pes-pe)と云い、積雪期に通行可能となる通路をマタルペシペ(mata-ru-pes-pe)と呼んで、サクルー・マタルーとも略された。険しい分水嶺越えでの上流の道はペナルペシペ(pena-ru-pes-pe)であり、より下流の道はパナルペシペ(pana-ru-pes-pe)である。
道内には、行政区画の町名ともなった留辺蘂を始めとして、これらに由来する地名が各所に残されており、さらに多くが現在までに失われただろうから、それは無数に存在したとして良かろう。全てが先住民族の古の交易路であった。

根室本線が石狩から十勝へと脊梁山脈を越えて往く狩勝峠もルペシペであった。それは、落合から遡る空知川支流の川の名に残っている。現行の国土地理院地形図にはペイユルシエペ川と記されているが、かつてにはパンケユクルペシュペ(panke-yuk-ru-pes-pe=川下の鹿道の意か?)と呼ばれていたのである。その谷を登り詰めた位置が標高640メートル余りの鞍部となっており、十勝側はペンケシントック(penke-sittok)川の源流となる。先住民族の交通路は急斜面を降りて、その谷を下っていたのであろうが、旭川釧路間官設鉄道の最後の区間として1907年9月8日に開通した落合-帯広間線路は勾配を避けて、新内川源流斜面を曲線を描きながら迂回していた。
ここには1931年に至り国道も通ずるが、それ以前の道路はずっと南側の臥牛山と尾田朱山の鞍部、現在に北海道横断自動車道黒松内釧路線(道東自動車道)がその直下を第二狩勝トンネルで通過する標高690メートル程の峠に開削されていたのである。「石狩道路」と呼ばれたのがそれであり、落合から串内を経て広内から清水、芽室へと至る経路を1898年10月に芽室側から着工し、翌年に富良野までを開通、峠の両側のクシナイとシントクに駅逓が置かれていたと云う。
この道路の経路選定にかかわる文書(北海道殖民地選定報文-1891年)に見ると、現在のルウオマンソラップチ(ru-oman-sorapchi=奥の方に往く空知川の意)川であるルウマソラチ川を遡った支流にルペシペとの記述が在り、このルートも古くからの交通路だったと知れる。ここでのルペシペとは現在の二股川のことである。
鉄道が落合までを開通した1901年以降は、十勝原野以東地域への入植路として、またそこでの農産品を鉄道に連絡する唯一の経路として荷馬車などの行き交ったらしいが、前述の釧路線の帯広に達せば、すっかりと寂れ廃道同然となり、狩勝峠に国道の通れば尚更に打ち捨てられたのだった。現在に北電の送電線保守通路の一部は当時の開削路と云われている。
1966年9月30日に開通の狩勝新線は落合からルウオマンソラップチ川の谷を上り、隧道の位置こそ北寄りだけれど、広内を経由するなど、同じような経路を採るのは先祖帰りのようで興味深い。
なお、その線路が広内陸橋から続く盛土築堤区間で交差する(通称の斜めガード)新得市街地から広内信号場への道、この道路だけがかつての殖民区画に逆らうようにそれを斜めに貫いているのだが、これも当時の石狩道路の名残である。

雪煙を引いて広内陸橋に続く盛土築堤を駆け下りて来るのは425列車、釧路行き。
今は西側も東側も防風柵に囲まれてしまって撮れない。斜めガードは撮影位置の直ぐ後方になる。

[Data] NikonF3+AutoNikkor180mm/F2.8C 1/500sec@f4 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

森 (函館本線) 2000

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以前に 森 (函館本線) 1969 に書いたこととの一部重複をご容赦願いたい。
森-室蘭間航路とは、開拓使が札幌本庁と函館出張所との間に砂利敷舗装の西洋式馬車道である札幌本道を開通するに際して、その速成から渡島半島基部や噴火湾北岸の山道開削を避け、湾口の茅部郡森村と室蘭郡「新室蘭」のトキカラモイを海上連絡としたのに始まる。
森村の海岸には延長75間(≒136m)/幅21尺(≒6m)の桟橋が茅部産の栗材(茅部栗)を用いて築造され、1872年10月より開拓使附属船の「稲川丸」(15トン)が定期運行を開始したのだった。なお、桟橋は翌1873年に全延長141間4尺(≒257m)のT字形に追設される。
この時点では函館札幌間連絡に供される地域航路に過ぎなかったけれど、同じく1873年にやはり開拓使の手により青森-函館間定期航路が開設されれば、本州連絡の主要経路の一部に組込まれるのだった。
1883年には開拓使の直営から民間へ委託されながら、基幹輸送路として機能した航路の状況は、1891年9月1日に日本鉄道が青森に達し、翌1892年8月1日に北海道炭礦鉄道が岩見沢から室蘭(現東室蘭、但し位置が異なる)を一挙に開通すると一変する。青森-函館間航路を運行していた日本郵船が、両鉄道間の連絡を意図して航路を室蘭へと延長、所謂三港連絡航路としたのである。本州方面と道央との青森-室蘭間航路を挟んでの鉄道連絡は、その時間的距離の短縮はもとより輸送力の大幅な向上をもたらし、森-室蘭間航路は基幹輸送路の地位を譲らざるを得なかったのである。これには、森町史は1893年2月に航路廃止と書くのだが、函館市史には運行継続と取れる記述のあり、また別資料には休止との記載も見て取れ判然としない。とまれ、大きな打撃を被ったには違いない。

これの復活は1903年6月28日の北海道鉄道(初代)の函館から森への到達が契機であった。函館と室蘭連絡は恵山岬を大きく迂回する直行航路よりも函館-森間を鉄道利用とした方が時間的に優位と知れたのだろう。航路は北海道鉄道国有化後の1908年に再開され、位置的に鉄道駅構内に取り込まれた桟橋へは本屋から連絡通路の整備され、桟橋待合室も置かれたと云う。それは民間の経営ではあったものの鉄道連絡船そのものと云えそうではあるが、開設時点で鉄道は小樽を経て札幌・岩見沢に達しており、着工の目処の就かずにいた長万部輪西間鉄道の代替との位置づけも含めて地域内で完結する輸送路であったろう。実際に1928年9月28日のそれの長輪線としての全通に際して廃止されたのだった。

先頃、この航路を90数年を経て復活する動きの報道がなされた。2015年5月26日付の北海道新聞によれば、胆振・日高管内の自治体や各観光協会、商工会議所などにて組織する「北海道新幹線×nittan地域戦略会議」が、北海道新幹線の札幌開業時にはそのルートから外れることを見据え、2016年春の新函館までの延伸を捉えて森-室蘭間に海上連絡路を設定、在来線鉄道や高速道路に比しての大幅な時間短縮と、併せて室蘭沖を回遊する海棲哺乳類の観察を組込んで、観光客を直接に誘導するルート整備を図ると云う。そして、2015年夏にはその実証実験を行うと在った。
その詳細は同会議のWebSiteにもまだ発表されていないが、森側の発着地となるだろう森漁港と森駅には距離の在ることや、観光にレンタカー利用が一般化した現在に船腹にはフェリィを要すると思われるなど、困難も予想される。結果を待ちたいところである。

島崎川橋梁から続く海沿い区間での1列車<北斗星1号>。排気を噴き上げながら重連の機関車が加速する。
画角の数度の既出をお詫びせねばならない程、ここには何回となく立ったのだが、下り本州連絡列車群の通過する早朝の好天に恵まれた記憶はあまり無い。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/60sec@f4 Fuji LBA2 filter Ektachrome Professional E100VS [ISO160/0.5EVpush] Edit by LightroomCC on Mac.

小沢 (函館本線) 1975

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無人の原野に、まず鉄道の停車場が開かれ、その駅名が地名へと転化した事例は道内に多々ある。事情はやや異なるけれど、現在の岩内郡共和町小沢地区、即ち小沢駅周辺の集落地名もそのひとつではなかろうか。

旧小澤村の村名の由来は、sak-ru-pes-pe(サクルペシペ=夏道に沿って下る川の意、転じて夏の交通路を指す)の意訳からと云われているが、1939年に北海道鉄道局の発行した「北海道駅名の起源」の小澤駅の項には、「起源は詳らかでない」と記されている。いずれにせよ、幕末期には岩内平野の最奥に和人集落として小澤村は存在し、それは開拓使の時代にも引継がれて、1901年に行政区画としての岩内郡小澤村他一ヶ村の戸長役場が小澤村に開かれているけれど、その位置は国富とされ、当時にはそこが小澤村の中心集落だったと伺える。同年に小澤郵便局の置かれたのも国富地区であった。
けれど、1904年7月18日に稲穂嶺に隧道を穿って小澤村に達した北海道鉄道(初代)の停車場は、セトセ川の谷を下ると掘株川を遡って倶知安峠へと至る国富を経由しない線形に、ヤエニシベの三田農場下に用地を求め、駅名に村名からの小澤を名乗ったのだった。ここへの停車場の設置は、徳川幕府により1857年に御手作場の設けられるなど早くから和人の移住の進んだ岩内平野一帯や、1900年には一級町村となった岩内町との結節点としてのことであり、そこに集落の存在した訳では無かったと思われる。それは駅前集落として形成され、小澤村の字小澤と呼ばれたのは駅名からの派生であろう。駅による利便からは1905年には小澤郵便局も移転していた。

開駅時の小沢は、稲穂・倶知安の二つの峠の狭間での給水に欠かせぬ地点ではあったけれど、基本的には中間駅に過ぎず、規模は小さかっただろう。以前に 小沢 (函館本線) 1975 にも書いたけれど、それの拡張は1912年11月2日の岩内軽便線の接続を機に行われたと見える。1908年にはシマツケナイ川の谷筋に黒鉱を産出する国富鉱山が開発されており、翌1913年に同線国富からの専用線が稼働すれば、製品の出荷のみならず、周辺鉱山からその精錬施設への鉱石搬入拠点として機能したのだった。1980年代まで残ったマンサード屋根の大きな駅本屋は岩内線との乗継ぎ旅客に、多くの駅要員の詰めるに必要な規模だったのである。
けれども、集落経済を背景に立地した駅ではなかっただけに、近年に岩内線を失うほどに旅客・貨物の道路交通への流出の進み、加えての函館山線の幹線からの脱落に至っては忘れられた駅となった。

かつてには当たり前だった駅の光景。当務駅長に見送られ524Dの長万部行きが出発して往く。
重厚な駅本屋に旅客跨線橋、有効長のある乗降場と上屋には、ここは間違いなく主要駅だった。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by LightroomCC on Mac.

石倉 (函館本線) 1999

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石倉 (函館本線) 1989 に書いたような経緯で、石倉停車場の正面位置には集落が無い。幾度もここに降り、殺風景にも程が在る駅前を歩いて往くのは、落部方に栄浜の先から1.5キロばかり続く湾岸沿い区間で南下する8002列車を迎えるためだった。段丘下の海岸線をR=600曲線で旋回する線路を南側から望むなら、落部から歩くよりは遥かに近い。

先達諸兄の作品の多くも残されたその立ち位置は蒸機撮影の時代から承知しており、南中から高度を下げつつ西空へと至る光線の陰影も体験していた。けれど、東に開けた湾岸の段丘下と云う条件での17時37分と云う通過時刻には些かに梃子摺ったのだった。
なるべくなら段丘斜面や線路際に植生の繁茂してしまう前にと訪れた6月の初めに、すっかりと陽の陰ってしまう様には、果たして編成が後方からの斜光線を旋回する姿を撮れるものか、検証せざるを得なかったのである。まずは、その年秋の渡道の際に分度器と錘で自作した簡易仰角計測器を持参、ここでの朝の撮影の際に斜面のタラップを降りてのレリーズ予想位置の線路海側からの計測で、真西方向の段丘面上への仰角は16度程と確認し、次に、東経140度44分34秒/北緯42度17分94秒である現地での17時37分の太陽高度が16度を越える時期はと、暦のWebSiteに当たってみれば、その期間は存在したものの、6月19日から7月7日までの僅か18日間に過ぎないと知れた。それも、当該位置は段丘面上にドライヴインの建つように後背の一段上の段丘面までなだらかに斜面の続いて、しかも、そこの樹木に日射の遮られぬのが幸してのことだった。勿論、その前後時期でも撮れるけれど、足回りまでは陽の回らないことになる。

撮れることには安堵したものの、写真屋としての不満は、北回帰線に達した太陽のこの程度の期間での動きでは方位や光質の変化を楽しめず、その光線で「撮らされる」ことだった。つまりは、「誰が撮っても同じ写真」なのである。しかも、植生の成育には脚立が欠かせそうになかった。
写真は6月30日の撮影。この日の17時37分の太陽高度は年間最大の16.22度なのだけれど、肝心の8002列車の3分延には少しばかり低かったはずである。
短い対象期間への渡道スケジュール調整も然り乍ら、天候次第の撮影には、この列車の走っていた四半世紀に満足の往くのは数カットと云うところだったろうか。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec.@f4+1/3 C-PL+LBA2 filter  Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push]  Edit by LightroomCC on Mac.

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