"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

糠平 (士幌線) 1983

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音更川の上流域、先住民族によりユウウンナイと呼ばれた地域は太古からの広大な原生林に覆われ、彼らの狩猟・採集生活の場であった。
それを全くに顧みることの無かった新政府と開拓使は、拓殖拠点としての帯広市街地造営ための用材供給地をユウウンナイに求め、北海道集治監釧路分監の囚人を造材従事者に送込んだ。それは道路の開削から始められ、着手は1892年と記録されている。十勝分監の設置前のことで下帯広村に釧路分監帯広外役所が設けられ、囚人の移送されていたのである。刑期5年以上の重罪囚からそれを半ばまで服役した囚人から選ばれた彼らは、当初には十勝平野の農地開墾要員と考えられており、刑期終了後には農民としての定着を意図していたと云う。犯罪人とは云え、多くは西南戦争下での不平士族や思想犯であった。しかしながら、奥地に越冬しての造材作業への従事には、凶悪犯罪囚から選別の為されるようになるのだった。
年間を通しての伐採は冬季には山元に貯木され、造材は夏季に音更川を利用して流送の行われた。それらは全て分監築造の自家消費に回されたのだが、市街地構築の造材には、ここでも内地新興財閥たる王子木材が関わった。囚人労働は自家用材の伐採終了後には同財閥の伐採地への道路開削、そして造材に振向けられたと上士幌町史にはある。

少しばかり乱暴な物言いになるが、1922年の改正『鉄道敷設法』(1922年4月11日法律第37号)とは、1900年9月15日の伊藤博文による結党以来に、地方の大地主と新興資本を支持基盤に政権を担った立憲政友会による党利党略の集大成として良い。
この政党は、幹線鉄道国有化の実現した鉄道院による改軌計画を1912年に力づくにて頓挫させる一方、鉄道建設の規制を大幅に緩和した『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)に、それに準拠した新線に利益を補償する『軽便鉄道補助法』(1911年3月23日法律第17号)までも制定して、新線建設を利益誘導の手段に用い、建設を希求する世論の沸騰を背景に法的根拠を与える「鉄道敷設法」の改正にまで至ったのである。同党に対抗した憲政会にせよ、同じ穴のムジナであり、鉄道の誘致に着工を巡っては私利私欲の熾烈な政争が繰り広げたのだった。全くに日本の保守政党と、それを支えた資本とは碌なものでは無い。

その碌で無さは、先の囚人労働を通じた搾取など一端に過ぎず、時の政権(これも伊藤博文内閣である)は1896年1月に拓殖を一元管理する北海道庁を成立させると、内地新興資本など「盛大な事業者」には未開墾地を無制限に、且つ無料での貸付けを定めた「北海道土地払下規則」(1896年6月29日閣令第16号)を制定、未開墾地には当然のごとくに広大な原生林の山林が含まれたのである。王子木材はこれにより、労せずして道内各所において山林地主となり、年間を通じての大量・定形の造材搬出には鉄道の建設を要求したのだった。
改正『鉄道敷設法』の別表に「 十勝國上士幌ヨリ石狩國「ルベシベ」ニ至ル鐵道」として法定された、上士幌からの延長線も、そのひとつである。1920年代後半の政友会と憲政会との政争の具とされて時間を浪費したものの、1934年に着工して1937年9月26日にユウンナイの糠平に、1939年11月28日には最奥地の十勝三股に達した。両駅の土場には造材の溢れたと記録され、それを満載した列車の行き交ったに違いなく、沿線住民には生活革命とも云える利便で生活の安定に寄与したのも確かではあるが、戦後に木材資源の枯渇とともに、資本はこれを打ち捨てるのだった。

透過層雲の雲底が湖面に接するような糠平湖岸を往く723D。隧道をひとつ越せば糠平に着く。
画角は既出で、糠平 (士幌線) 1978 の夏姿になる。
1955年の客貨分離以来の一日に5往復運転は、その内の1往復分には乗車するし夜間には撮れないから、撮影チャンスの2回から3回程度は効率の悪いこと、この上無かった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 FujiSC56filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

長万部 (室蘭本線) 1994

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ずいぶんと昔の話しだけれど、写万部山に登ったことがある。山好きだった親父には物足りぬ低山ハイクの部類だったろうが、小学生でも歩ける山を選んだものだろう。実際に長万部地域では小学校の遠足山であるらしかった。とは云え、一等三角点の山でもある。
洞爺湖畔に前泊しての鉄道利用には旭浜信号場に降りたと思うのだが、残念ながら記憶が無い。かすかに覚えているのは、登山口まで延々とまっすぐな砂利道を歩いたこと、周囲の見事な黄金色、そして山頂から遥か長万部市街に立ち上る黒煙の見えたことである。当時の空中写真に当たると、確かに信号場近隣から静狩原野を転換した農地を横切る直線道路の延びて、そのままに登山道へと繋がっており、微かな記憶は正しかったことになる。想えば、市街の煙は駅や機関区に屯した機関車のものに違いあるまい。

この山が、標高の499メートルばかりに関わらず、約260万年から250万年前に活動した成層火山とは最近に知った。五万分の一地質図に見れば、山体は確かに安山岩の岩体と記されている。
融雪期にヒラメを思わせる形状の残雪が現れ、それを漁期の始まりの目安としたと云う先住民族による口碑伝承の山、ウパシサマムペ(upas-samampe=雪ひらめの意)であるとされ、長万部の語源とも語られるが、伝説の中の話であり研究者間でも確証はないらしい。和人による当て字はウパシを外しての「ひらめ山」である。地元には写万岳の呼び名もあるようだが、岳とするには登山道に長い尾根歩きの続くやさしい山容ではある。
Webにて最近の様子をうかがわせてもらえば、頂上にコンクリート製の天測点が見て取れる。印象に残りそうな構築物だけれど、当時にも存在したものか、どうにも覚えていない。

写真は、標高400メートルほどの山系を背景に、強い西陽を浴びて南下を急ぐ8002列車。
画角の既出はお詫びする。あえて、それと知れぬように撮っているのだが、列車は新長万部川橋梁上にある。
長万部や静狩近辺での撮影で背後に写り込む穏やかな山容の山々は好んだ風景で、右寄りのピークが写万部山である。この葦原には幾度か分け入ったものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

落石 (根室本線) 1980

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根室郡和田村大字落石村の地名は随分と昔から知っていた。チャールズ=リンドバーグによる1931年の北太平洋横断飛行でアリューシャン列島を南下する搭乗機シリウス号を誘導し、濃霧の根室湾へと着水させた無線電信局の所在地としてである。書名は失念したが、学校図書館の蔵書に読んだものだろう。国家の大事な施設は全て東京に在るものと信じていた札幌の少年には、それが北海道の、しかも東の果てに存在するなどと信じられぬ思いだったと記憶する。
落石無線電信局は、それが唯一の長距離通信手段だった1908年に、北太平洋の大圏航路を北米西海岸と往来した船舶との通信局として設けられ、カムチャッカや千島列島、樺太の電信局との間で公衆電報業務や気象通報なども行っていた。高さ90メートルのアンテナと局舎に居住宿舎や共同浴場に娯楽施設なども擁する一角が落石岬の原野の只中に造られて、局員と家族の50人程が暮らしていたとされる。
電信とは電鍵を叩き、モールス信号を共通言語に意志疎通を図る通信方式である。それは国際通信ばかりでなく、当然に国内通信にも用いられ、全国に有線・無線の通信回線網が1900年代初頭までには形成されていたのである。

1872年に品川-横浜を開業して以来、鉄道もまた部内の相互通信を電信方式に頼り、官営からの国有鉄道も独自の電信網を整備するに至る。同年12月6日には当時の鉄道寮内に電信技士養成の電信修技所が置かれ、これが国有鉄道における職能教育制度の嚆矢とされているほどに、電信は列車運行に欠かせぬ通信手段であった。
1880年の神戸-三ノ宮間を端緒に電話の導入も始まるのだけれど、当時には長距離通信には使用出来ず、構内通話を中心にせいぜい駅間連絡の補助に用いられた程度に留まっていた。1900年代に至りタイヤー氏式タブレット閉塞装置の導入や双信閉塞器の開発により電信を用いた閉塞扱いが廃止されると、運転との直接性は失われ、電話技術の進展には事務的通信の分野からは撤退を余儀なくされたものの、まだ不安定であったそれに対しては確実性や多箇所への同時送信の利便から列車指令には電信の多用される時代の続いた。
電話による運転指令は、その信頼性の向上とともに1922年の汐留-沼津間、汐留-八王子間での施行に始まり、重要幹線から、ほどなくは全国へと普及し、電信を放逐するに至るのだが、その後も一部書面の通達に同報性・速達性を要する書類の送信には永く利用され、戦後の日本国有鉄道東京教習所では1963年まで電信技士の養成が行われていた。

落石無線電信局の業務は、それの存在を知った頃の1966年には札幌中央電報局に統合されて要員の引上げられていた。無人の通信施設としてはその後も稼働した様子なのだが、詳細は調べ得ていない。
落石に初めて降りた1971年に、午後から晴れ出した霧の彼方にアンテナ塔を確認したようにも覚えているのだけれど、どうにも記憶は曖昧になってしまった。数年後、落石漁港へと下る道の途上から、かつての局舎の廃墟を遠く眺めて位置を確認したものだった。
落石湾を見下ろす段丘上を往くのは238D、釧路行き。後追いである。
何度か落石で記事を書いているにかかわらず、いまさらに定番の画角をご容赦頂きたい。この日は、わざわざ漁港を経由して三里浜を延々と歩き、写真の急崖を登って到達したとメモにある。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

トマム信号場 (石勝線) 1982

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鵡川と聞けば日高本線の停車場を思い浮かべるのは鉄道屋だからだろうが、本来には駅の所在地である勇払郡鵡川町(現在には穂別町との合併により「むかわ町」)の由来であり、そこに河口を持つ川の名である。狩勝連山のひとつ、狩振岳の北西斜面を水源に延長135キロを流れ下るには、夕張山地をトンネルで貫いた石勝線がそれの谷を遡ることになり、些か意外感もある。その上流域が先住民族が湿地を指して呼んだトマム(tomam)に当て字した苫鵡である。自らの形成した谷底平野を蛇行する鵡川の川岸が低湿地を成していたのであろうか。

この山中に開けた僅かな平坦地を現在の道道136号夕張新得線は緩い曲線を挟み乍らもほぼ直線で通過している。かつてに拓殖のインフラとして開削されたこの道路を基線として植民区画の定められた明らかな名残である。それは占冠村史に依れば1900年のことであり、入植は1902年から始められたと記録されている。
植民適地の選定と区画設定は、1886年1月に北海道庁の設置からまもなくに開始され、全道遍くに及んだ事業に関わらず時間を要したのは、この地が鵡川を遡るにもニニウの峡谷と鬼峠に阻まれ、石狩側から神居古潭なり空知大滝の難所を経て富良野盆地に至り、さらに金山峠の踏分道を延々と越えた上に鵡川上流を目指して辿り着く最奥地だったからであろう。岩見沢からの官設鉄道が1898年に旭川へ、そして1900年12月の鹿越開業を経て翌1901年9月3日に落合に達すれば、落合からルウオマンソラプチ川の谷筋、もしくは幾寅峠越えが最短経路となり、1902年12月6日の幾寅停車場の設置はここでの拓殖計画と関連してのこととも思える。
しかしながら、過酷な気象条件とあまりの交通不便に入植は進まず、本格的に開拓の進むのは、戦後の「緊急開拓事業要領」による復員兵や引揚者らの入植以降のことであった。

「鉄道敷設法別表」に第142号ノ2項として法定の御影辺富内間鉄道、国鉄部内で通称の日勝線が、日高山系を沙流川ではなく鵡川を辿るよう計画変更された経緯や時期については調べ得ていない。石狩十勝連絡線として1957年4月に調査線となり、別表134号に法定の金山登川間鉄道、計画線名での金山-紅葉山間紅葉山線と共に、途中占冠で接する新得-日高町間狩勝線として1959年11月9日に工事線へと編入された時点で苫鵡地区の通過は既定であり、そこには滝ノ沢、下トマム、上トマムに串内の4駅の設置が予定されていた。
狩勝線の占冠-新得間工事計画の認可された1961年当時の占冠村トマム地区には農業・林業関係者を主体に892人が暮らしていたから(1960年国勢調査)、その利便には当然の計画であったろう。けれど、その直後よりの高度成長期を通じて歴史の浅い戦後入植者たちの離農が相次ぎ、国内林業の衰退もあって、これら鉄道が石勝線として開業を迎える頃には124人へと減じ(1980年国勢調査)、並行道路の整備からも予定駅は、近隣に保養地開発計画の存在した上トマム、開業名の石勝高原を除いて全て信号場とされたのだった。

開業間もない頃の石勝線を上るのは臨時急行8416D<まりも52号>。
<まりも>は石勝線の開業に際して根室線急行に復活した愛称である。高速走行の短絡線として開業の石勝線ではあったけれど、出力不足のキハ56/27とあっては札幌-帯広間に3時間50分あまりを要して、それは富良野回りにて残存した<狩勝>の4時間10分と大差なかった。
画角後方に見えるのが、下トマム駅として計画されていたトマム信号場である。上記の民間の保養地開発計画名称から付名の石勝高原を1987年2月1日付にてトマムへ改称するに際しホロカ信号場と改められた。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

湯の川 (函館市交通局・湯の川線) 1977

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「蝦夷拾遺」に記録された徳川幕府による1785年から86年の調べで、上湯川村と下湯川村には300人余りの人々が暮らしていたと在る。それが和人なのか先住民族なのかの記載は無い。江戸期に集落を指し示していた「村」は、開拓使の時代となって1869年に渡島国亀田郡に組み込まれて引き継がれ、1879年には行政区画としての上・下湯川村が成立して下湯川村に戸長役場が置かれた。当時に道南の拠点に発展しつつあった函館区に隣接し、その市街地から東に6キロあまりを離れた郊外であった。
現在の湯川に対する先住民による yu-pet(ユペッ=温泉川の意)の地名とおりに、下湯川村には温泉の自然湧出していたと云い、1885年には高温の湯脈の掘り当てられ、翌年12月に湯川村温泉(浴場?)が開場、以後源泉の掘削の続いて1890年代に至れば温泉旅館に別荘などの温泉街が形成され、当時には湯川沿いを湯川温泉、松倉川より海岸側を根崎温泉としていた様子である。1887年には函館市街と結ぶ新道も開通して温泉街は活況を呈したのではあるが、徒歩ないし人力車や馬車に頼らざるを得ない交通に加え、物資輸送に往来した荷重の在る馬車の増加を想定していない道路は、融雪期や長雨の季節ともなれば、それこそ「馬体没する」悪路と化し、次第には温泉客の遠のくところとなっていた。
これには湯川側から函館湯川間鉄道の敷設運動の起こり、それは紆余曲折の末に亀田から函館連絡を優先した亀函馬車鉄道として1895年に設立登記され、1897年に函館市街区間の一部を先行開業、同じく函館-湯川間の蒸機鉄道を計画していた函湯鉄道(後に函館鉄道)と合併後の1898年に亀田までと共に湯川までの路線を開業したのだった。本社を置いた東川町(現在の函館市役所東側付近)から延長の線路は前記の新道上に敷設された。
この亀函馬車鉄道を改めた函館馬車鉄道の開通は、湯川温泉復興の起爆剤となり保養温泉としての地位確立に寄与し、1911年10月1日付での函館水電への買収にともなう電気鉄道への転換を経て、1943年11月1日の函館市による経営へと繋がるのだった。
松風町を起点に湯の川まで6キロの函館市役所交通局湯の川線の開業日は、その電気運転が実現した1913年6月29日が採られている。

写真は終点湯の川停留所に進入して来る710型の711。
1985年の国鉄五稜郭車両所での車体更新を経て、2009年度末の廃車まで50年を生き延びた車両のオリジナル当時の姿、と云うことになる。
この湯の川終点は、ほぼ函館馬車鉄道開業の湯川の位置と思われるのだが、戦後の1949年6月13日付にて温泉入口停留所からの区間が一旦廃止され、1959年9月2日に再延長となったものである。その際には温泉入口を改めた湯川を湯の川温泉とし、ここを湯の川と、共に「の」入り名称が採用された。函館市の住居表示は湯川のままであるから、これは温泉街側の表記に合わせたものであろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/250sec.@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

上野幌-北広島 (千歳線) 1990

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札幌市の経済発展を背景とした千歳線沿線における公的宅地開発事業は、1960年代後半に開発面積が50haから100ha規模の千歳市東郊地区、恵庭市駒場地区を端緒に(これに先立つ北広島市輪厚団地の市営住宅開発があるけれど、これは沿線域を外れる)、1970年には広島町の旧市街地東側に広がる丘陵地での北海道主導の440haに27000人の居住を目指した大規模開発が始まり、以後、民間を含めて続々と計画の続いた。
これにて、同町を例に採れば1970年に9746人であった人口が1975年に22264人に急増するなど、全ての開発計画が札幌への通勤線に依拠した国鉄千歳線の沿線人口は著しく伸長したに関わらず、国鉄側の対応は必ずしも開発事業者の思惑や利用者の期待どおりでは無かったのである。

この間に千歳線は、1968年10月に予定した全線複線供用が苗穂-上野幌間の線増方式決定に手間取り遅延しながらも、1973年9月9日の同区間を最後に施行されるなど線路容量の飛躍的に向上したのだけれど、それはあくまで対本州連絡輸送に重きを置いてのことで、以降の輸送力拡充は貨物輸送を主体に長距離旅客輸送に振向けられ、線内輸送は1972年3月改正時の上下24本列車が1975年3月改正に至っても2往復の増発を見たのみであり、朝の通勤時間帯でもキハ21や22を連ねた列車の4本が雁行するだけの有様であった。これには、完成した分譲住宅に全く募集のかけられないなど沿線の宅地開発事業の計画進行の遅滞を引き起こし、道議会で問題視されるなど新聞にも多々取り上げられるところともなっていた。
運行の大幅な増発は電車運転を前提としていた国鉄北海道総局も1964年1月に当時の北海道支社へ設置の「北海道電化計画委員会」が立案した1971年度からの遅れを憂慮しただろうが、代替案の気動車の増備は電気運転の実現すれば手戻りとなるだけに踏み切れなかったのである。
電気運転化工事の着工に至らなかった事情は、以前の記事 張碓-銭函 (函館本線) 1974 に書いた通りであり、国鉄も道も、また利用者も国策に翻弄されたゆえであった。
それのようやくの実現は1980年10月改正を待たねばならなかった。一挙上下60本運転への増発は現在の頻発運転に比すれば隔世の感もあるのだが、この飛躍的利便の向上を見越してのことか、その年に広島町の人口は4万人を突破したのだった。

R=800M曲線を旋回して厚別丘陵越えのサミットに差し掛かるのは2778M、千歳空港行き。
幾度かここにも書いている通り写真屋として幹線の電化区間をあまり好まぬ上に、実を云えば鉄道屋としても電車は全くの専門外である。なので、北海道へとやって来て、それを意識的に撮ることはほとんど無い。後方からの斜光線で知れるだろうが、これも8002列車を待つ間の習作カットである。
線内列車自体の増発も在って過密化する千歳線の線路容量拡大には、最高運転速度の130km/hを伺っていた気動車列車に伍する速度に、各停列車の加減速性能向上を要して1988年度に開発されたのが721系列電車の一群であった。そればかりでなく、接客設備から車体デザインに至るまでのコンセプトは北海道旅客鉄道の意欲作として良い。発足当初には同社が輸送サーヴィス業者として正しい道を歩んでいた左証でもあろう。
高速走行に「タラコ唇」状を呈する貫通幌の小樽方定位には、撮るなら苫小牧/岩見沢方面行きに限る。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec.@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

志撫子仮乗降場 (湧網線) 1977

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常盤仮乗降場 (天北線) 1985 にも書いた通り、北海道における鉄道景観の重要な一部を成すところとなった「仮乗降場」は、1954年に旭川鉄道管理局の第二代局長を任ぜられた斉藤治平を無くして生まれなかったとして過言ではない。「国鉄自動車経営論」の著作の在るとおり、地域交通に通じていた斉藤は赴任直後より多くの開拓地を抱えた管内の巡視から、始まりつつ在った「ディーゼルカー」の配備を背景に、それをバスのごとく頻繁に停車させることを考えたのである。
1954年11月半ばの網走方面巡視には、前年に全通を果たしたばかりの湧網線も通過し、沿線首長からの陳情も受けたことだろう。1955年12月25日と記録される遠軽機関区に新製配置のキハ10000形(後のキハ02形)-9両による同線客貨分離に際して、新たに線内6箇所の乗降場が置かれ、志撫子仮乗降場はそのひとつであった。

設置には既存停車場からの距離も勘案されたであろうが、ここに限ればその中湧別起点15K290Mの地点は、隣接の計呂地まで僅かに1240メートルしか離れていなかった。当時に付近にはサロマ湖での漁業者ら数軒からなる集落が所在したのではあるが、これは志撫子川の谷底を7キロ余り遡るまで散在していた本来の志撫子部落(当時の呼称)への利便を図ってのことであった。計呂地までの1キロを余計に歩かせず、気動車の加減速に優れた特徴を活かした短距離間での停留所設置は、斉藤治平の真骨頂と云えよう。
気動車1両分程度の粗末な板張乗降台の設備ではあったにせよ部落の利便に貢献したに違いなく、住民らの手により仮乗降場には例の無いような、ほぼ乗降台の長さに等しい待合施設が造られていた。住民(もしくは旧住民)の方によると思われる年表-志撫子郷土史には1957年10月18日の建築と記録されている。1964年7月17日の項で、これも乗降場にはあまり例を聞かない便所を設置したとの記述も見える。
ここには1977年の冬に始めて降り、翌冬にも再訪したのだけれど、寒冷にフィルムの折れてしまうアクシデントに、結局はその翌年と3年を続けて通ったのだった。

写真はサロマ湖畔を芭露へと走り去って往く924D、中湧別行き。
米粒ほどの単行気動車はご容赦いただきたい。この湖面に突き出した簡素な桟橋を画角にしようとすれば、どうしても広角の選択になってしまうのである。前述の年表によれば、この漁業施設も志撫子の住民が1972年4月に設置したものと云う。その延長は湖上200メートル程は在ったと記憶する。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec.@f5.6-8 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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